聴神経腫瘍になって、いろいろ不便になった。
左耳では電話が聞えなくなって、
平衡感覚もおかしくなってバランスを崩し易くなった。
それに加えてとても疲れ易くなった。
頭痛持ちになって軽い頭痛はよく出るようになった。
これらの症状から活発に動くことが面倒に感じるようになって、人ともあまり会わなくなった。
気付けば引きこもりのような生活になった。
症状は一進一退。変化と言えば時々腫瘍が大きくなるだけだった。
一時期、顔が一部麻痺したり、真っ直ぐ歩けなくなったり、頭痛が酷くなったりした。
出口の見えないトンネルの中で出口を探して右往左往しているような気分だった。
治る気がしなかった。
人生が好転する気がしなかった。
一時期はこのままではヤバいと焦ったり、もう人生詰んだと思ったりした。
経過観察してた聴神経腫瘍が大きくなって来たので放射線治療をした。
しかし、一気に小さくなる訳では無かった。
一度少し小さくなって、大きくなって、次は小さくなるだろうと言われている。
「ガンマナイフは我慢ナイフ」
主治医がそんな言葉を教えてくれた。
大きくなった時は正直ちょっとがっかりしたけど、
その前後から体調が安定していたので、何となく良くなる気がし始めていた。
その気持ちは萎えるどころかだんだんと確信に変わって行った。
その過程で人生に対する考え方も変わって行った。
若い頃は人生には敷かれたレールが有ってそれに乗っているのが幸せへの近道みたいに思っていた。
しかし、だんだんその人生のレールが窮屈に感じさせるようになって行った。
見せかけの安全を提供してくれるけど、代償として選択の自由、言動の自由が制限されると感じるようになった。
会社を辞めたらそのレールから降りることが出来ると思った。
実際どうしたら良いのか分からなくなった。
しかし、生き辛さは無くならなかった。
その時には分からなかったけど、今ならその理由が分かる。
人生のレールというのは想像の産物だ。
実際には無いだろう。
だから問題は人生のレールではないのだ。
人生のレールが有ると思ってそれに乗っていれば安心して幸せになれると思ったのはぼくだった。
人生のレールが窮屈だと思ったのはぼくだった。
それから外れようと思って降りるために人生を変えたのはぼくだった。
全部自分が決めていたのだ。
そしてレールから外れて生きてみて、辛い目にも遭ったけど今まで生きて来れた。
それが今になって、全部がつながって見えるようになった気がした。
いわゆる底を打ったというやつだと思う。
ぼくの人生の底はここだなという感じ。
ここまで落ちても生きていられる。
幸せも感じられる。
そう知ったことで、だったら今からやりたようにしても良いよな、と思えた。
言葉で表現するとそんな感じだろうか。
別に不幸自慢がしたい訳じゃない。
ぼくよりも困難な状態の人も沢山いるだろう。
でも、不幸だとか死にたいとか思っている内はまだ底を打ったとは言えないと思う。
不幸の種類や深さでも無いし、長さでもない。
こんだけやればもう良いかな、と思えるかどうかだと思う。
怒る人も居るかも知れないけど、
辛い状況に飽きたときが底を打ったと言えるんじゃないかと思う。
飽きるというのは、感情があまり揺り動かされなくなるということ。
怖い!辛い!というのが出て来るならまだ飽きてないんだと思う。
あくまでぼくの考えだけど。
言い換えると、
脳に腫瘍が有って、左耳があまり聞こえなくて、平衡感覚がちょっと弱いのがぼくだ、
と思えるということかな。
だから底を打とうと思たらいつでも出来る。
ダメな自分、出来ない自分、おかしな自分を受け入れちゃえば良いのだ。
ぼくは脳腫瘍が出来るまでそれが出来なかったから、
底を打つのに苦労した方かも知れない。
まあ、底を打とうと思って生きて来た訳ではないからしょうがないけど。
底を打つと、ここが底だと思うから生きる上での怖さが薄れ、人生のレールとか考えなくなる。
考えても、そのレールはどうとでも作り変えられるし、乗ったり降りたりも自由だと思える。
それが本来の人生の在り様だろう。
全ての人が自分オリジナルのルートを進んでいる。
レールなんか無い。あるとしたらそれは自分の想像の産物だろう。
自分の道の先を進んでいる人は居ないと思う。
先に居るように見えても、その人のルートが偶然近かっただけだと思う。
他人の真似をして生きることは出来るけど、
他人と同じ人生は生きられないと思っている。
ぼくの人生のルートは、他の人とはだいぶ違うのかも知れない。
でも、それも程度の差でしかないと思う。
自分の人生は自分しか生きないというのはみんな一緒なのだ。
だったら、自分の人生に対する他人の意見なんか大して有用じゃないと思う。
大事なのは、他人の意見を聞いた自分がどう感じるか?だと思う。
自分の人生は自分の自由にして良いし、自由に出来ると思う。
たぶんどの時点からでも何でも出来るのだろう。
まだ、「出来る。」とは言い切れないけど。
今はそういう風に考えられるようになったという話。