いつも考えているのは思考中毒 | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

悩んでいませんか?
いつも何かを考えていませんか?

それは思考中毒かも知れない。

原因はいろいろあると思うけど、まずは自分を受け入れていない。
自己肯定感が低いと言うか、自信が無いと言うか。


自分が信じられない代わりに、思考を信じている。
正しい考え、論理的に破綻していない考えは間違いないと思っている。
そして思考によって、言い換えれば科学で解明出来ないことは無いと信じている。

今解明出来ていないことが有るのは、科学が間違っているからでは無くて人間の思考能力が充分ではないからで、

科学=思考が悪い訳ではないと思っている。
正義や義務や責任、権利と言った概念=考えを自分よりも大事だと思い込んでいる。

自分を信じられないから心細い。
だから、思考にすがっているのかも知れない。
いつも考えている。
考えることが無くなったら、作り出してでも、昔の問題を思い出してでも考える。

それで心のバランスを取っているのだろう。

また、思考が自分だという勘違いをしてる場合もある。

思考する場合、考える主体である「自分」は、思考をツールとして使うことが大事だと思う。
そうしないと思考の方でも主人が不在では困るので、思考がその役割を担うしかなくなる。
それは思考を野放しにすること。
そうなると、思考を止めるのは難しくなってしまう。

思考主体で生きていると、
何かをする際に、計画を細かく立てて、その通りに物事を進めようとする。
計画を立ててそれを実行するという手順を踏まないと気持ち悪い。
そんな感じで何でも考える。
ずっと思考し続け、イメージの世界に没頭しているような状態を長時間続けることになる。

景色を眺めるとか、自然の中に身を置く、感覚を使って思考しない時間をもつことで、心身はリフレッシュする気がする。
そういう時間を一切持たずに全て思考に使うのでとても疲れる。

だから、消耗している時は何もしたくなくなる。

飯食って風呂入って屁ぇこいて寝るだけ、みたいな。

やるなら細かく計画を立てて、その通りに進めたい。
でもそれが出来ないなら一切やりたくないという訳だ。

完璧にやるか全くやらないか、1か0かという意味では、デジタルっぽいのが思考らしい気もする。

やらないければ考えることが無くなるかと思えばそうはならない。
思考は抜かり無く、怠け者だと自分を責めることを忘れないだろう。

自分責めが癖になる、止められないのはこういう仕組みになっているからかも知れない。

自分を受け入れ、許し、自分以外の何者かになることを諦め、自分軸で生きることは、

思考に振り回されないで生きるためにも大事なことだと思う。


ここで注意したいのは、
思考は悪者や不必要なものではなく、ツールだということ。
自分を維持するために、ツールにとっては荷が重たい主体という役割を果たそうと機能しただけなのだ。

健気だな~と思う。

思考にとっても、「自分」が、本来の主体として思考を使ってくれる方が正常に機能出来るから嬉しいはずなのだ。

エゴを悪者だとか、邪魔してるなんていう話をどこかで目にしたことがある。

エゴって思考のことだと思う。

思考はツールとはいえ、自分の一部。
「自分」が自分を嫌うというのはやっぱりおかしい気がする。
本当にそう思っているとしたら、自分が分割されて仲たがいしているような感じがする。

自分の中に諍いを抱えた状態で、他人と協力関係なんて築けるのだろうか?

世の中に諍いが絶えない(ように見える)根本原因は、
実は自分の中に諍いを抱えていることなんじゃないか?

だとしたら、他人を助けたり戦ったりする前に、

自分の中の諍いを止めることの方が先決じゃないかと思う。

 

そうしたら案外、世界は平和になったりして、なんて思う。