大人になっても拗ねてる人は多いんじゃないだろうか?
自暴自棄、他人に嫌がらせをする、文句を言う、他人を妬む、他人に感情をぶつける。
こういうのは全部拗ねてるのを細分化して難しく言っているだけだと思う。
拗ねは、人生の中で多用して来たと思う。
多分最初の内は望みを上手く叶えられたのだろう。
しかし、たぶんそれは拗ねるという行為が有効だからではなくて、
ぼくが幼かったから周囲の大人が折れてくれた結果だと思う。
しかし、幼少のぼくはそれで味を占めてしまった。
拗ねれば世界をコントロール出来ると信じてしまったのだ。
多用しているうちにだんだんと周囲も折れてくれなくなっていったのだと思う。
それでぼくは諦めたか?と言えばそうではなかった。
拗ね方を変えたのだろう。
より嫌な形になったぼくの拗ね方を見た周囲の大人は、
嫌な子どもだと思いながらも、拗ねを止めさせるために要求を飲んだんだんじゃないだろうか。
しかし、それもしばらくの間だけ。慣れてしまえば拗ねてもワガママは聞いてもらえなくなる。
そしてまた、拗ね方が進化する。
こうやってどんどん拗ねることが身に付いてしまったのだと思う。
他人に危害を加える人の中で起こっているのは、
怒りとか憎しみとか、他人を敵視して危害を加えようという企みではなくて、
言うことを聞いてもらいたいから拗ねているというケースが多いんじゃないかと思う。
その規模が大きくて、大掛かりで、多くの人に迷惑をかけたり、誰かを深く傷付けたりしているので、
ニュースなどで見聞きした程度のぼくなんかはどういう精神構造なのだろうか?と驚いてしまうけど、
問題を引き起こした本人は必ずしも極悪人ではないかも知れない。
ただ単に幼少の頃に覚えた拗ねるという処世術だけで生きて来た人のなれの果ての姿なのかも。
そう考えると、やっていることの重大さに対して、
あまりにも無謀な事後の対応や、罪の意識みたいなものが全く感じられない言動など、
とても幼く感じられるのも納得出来る。
そこまで行くのはかなり特殊な例かも知れない。
そこまで行かなくても、日常的に拗ねて見せている人は案外多いような気がする。
拗ねてもあまり自分の希望は通っていない。そして、拗ねて希望を通そうとして使う労力は非常に大きい気がする。
そんなことをしないで、素直にお願いしてしまえば早い場合は多いだろう。
拗ねるというのは、自分には自分の望むものを実現する力が無いと思っている人が、
自分よりも強い者を利用するときに使う方法だと思う。
だから、今の自分は成長して充分力があるので、自分の望みは自分で叶えられると知れば、拗ねなくなると思う。
拗ねるのを止めるには、早目に自分が拗ねていることに気付くことが大事だと思う。
自分だどれほどの力を持っているか、
自分が望みを叶えるために何をしているか、
そういう自分のことを全く知らないんだな~と思う。