この↓ブログの説は面白い。
この説はが万人に当てはまるか=正しいのかどうかは分からない。
でも、今の世の中で生きて行くには、自分の中に1割くらい悪人が居た方が良いのかも知れない。
ぼくは最近までは10割善人を目指していたが、挫折した。
目指していたというより10割善人だと思い込んでいた。
少しでも悪人の要素を自分の中に見出すと、それを無くそうと努力していた気がする。
漠然と10割善人なら何か良いこと有るだろうと思っていたのだが、
そう在ろうとすればするほど自分や他人の悪行が目に付いて、かえって生き辛くなると知った。
だいたい、自分の中の善悪の比率を変えるとか、もっと言えば自分を変えるなんて本当に出来るのだろうか?
と思うようになった。
自分のイメージを変えることは可能だろう。
しかし、本当の自分は変えられない気がする。
自分というのは、名前や身体や経験や言動や考え方のようなモノでは無いと思っている。
自分のほとんどは他人にも自分にも認識出来ないようにどこか見えない世界に隠れていて、
認識出来るのはその一部分でしかない気がする。
何かのキッカケでその認識出来る部分が隠れて、別の部分が現れることは有るようだ。
それを成長とか進化とか言っているだけで、本当は変わっていない。
そんな気がする。
だから、ここで言う、
『僕らの心の中にも1割悪人を置いとく』というのは、イメージの中の話だと思う。
自分の中の1割は悪人と思っていれば、他人の悪行も許すことが出来る。
本来自分には関係無いのに、他人の言動に腹が立ったり、注意して改心させようと思ったりしない。
自分のクズの部分が出てしまっても、
元々自分の中には1割悪人を置いているんだからしょうがないなとなって自分を責めないで済む。
それは、自分の精神衛生上とても良いことだと思う。
どうやら、『心の中にも1割悪人を置く』というのは、何に対しても完璧を求めないということだろう。
善悪のジャッジの判断基準を下げるということでもあるようだ。
人なんて、自分を筆頭にクズばかりだと思えると、
善悪で人を裁くことが減るような気がする。
裁いてはいるのだろうけど、こいつは悪だというジャッジが出難くなる。
道徳的、倫理的に素晴らしい言動を目の当たりにすると、ちょっと感動したりする。
どうかすると、あの人無理してるんじゃないか?楽しても良いのに、と気になったりする。
所謂良い事をする人も、良い事だからするという人と、
したいからしたら良い事だったという人が居ると思う。
無理してでも良い事をするのが良いんだと思っていたけど、最近はそれは違うと思うようになった。
クズなんだから、利己的な言動をしたいはずだから、
それを無理して良い事をすると、本当は悪事(?)がしかたったという欲求は抑圧され蓄積される。
いつか何かの拍子に言動や感情として表現されると消えるけど、
それは何でもないことで激高したり、イライラしたりと嫌な気持ちで表現され易いだろう。
だったら、出て来た欲求はそのまま実現しちゃう方が楽だと思う。
そう考えて、逆かも知れないと思った。
クズだから利己的になるんじゃなくて、
自分の欲求を抑圧して蓄積しているから、それが言動や感情となって表出するのがクズな言動なんじゃないかな?
クズな言動をするのは、その人がクズだからじゃなくて、
抑圧し蓄積して来た欲求が噴き出した結果なんだろう。
そんなものをいちいちジャッジして良いだの悪いだの評価するのは無意味な気がするな~
クズな言動をする人は、どっかで何かの無理を自分に強いているんだろう。
それは自分の思う正義を貫こうとした結果だろうから、きっと真面目な人なのだろう。
まあ、どんな正義を貫いているかは知らないけど。
正義を貫こうとするとクズになるという結論のようだ。