この↓ブログを書いた後もモヤモヤしてたのでもう一回書いてみる。
前回の動画に加え、今度はこの↓動画を観て感じたこと。
怖いっていうのは、どういう時に出て来る感情か?って考えると、
何だか分からない、捉えられない、分からないモノに直面した時かなと思う。
サスペンスやホラーを観る時、
何が起こっているのか?とか誰が犯人なのか?とかよく分からない時は怖いけど、
理由や原因や原理や犯人が分かった途端に怖さが激減する。
自分の中でその物語が位置付け出来ると言うか、
「分かった!」
となると怖くなくなるようだ。
本当に分かっていなくてもよくて、自分が分かったと思えれば怖さが無くなる。
もうちょっと深く観察すると、
「これは自分には危害を加えないことが分かった!」
となると安心するようだ。
言い換えれば、自分の中で整理がついた、未知だったものが既知になった、
レッテルを貼り終わったという感じだと思う。
ぼくは何にでもレッテルを貼ることで安心しているようだ。
いちいち意識せず無意識で、潜在意識でやっていると思う。
それはレッテルを貼らないと安心出来ないということだろう。
そう考えると、このレッテルを貼るという行為と言うか、ジャッジは常にやっているのだろう。
テレビや動画など、情報が溢れているので、それは膨大な作業なんじゃないかと思う。
そういう前提があるぼくにとって、
『この世には何も価値がありません。
何も正しいものも無いし逆に間違っているものもないし、
良いものも悪いものもないんです。』
というのが受け入れられたらどうなるだろう。
目に見える、耳に聞こえる、触れる、味わえる、臭う全てのモノ、
考えや感情、とにかく認識出来る全てに対していちいちやっていたジャッジをしなくて良くなるのだ。
レッテルを貼らないではいられない気がする。
だからジャッジをすっ飛ばして、ひとつひとつに
「無意味」
というレッテルを淡々と貼るだけだろう。
これって、安心するか不安になるかを外のモノによって左右されていたのが、
自分で安心すると決めるということだとも言える。
何時か何処かで待っている良い事を探し回っていたのが、
今ここで良いことが起こっていると決めるということ。
与えられるのを待つのを止めて、
もう与えられていることにするということ。
他人軸から自分軸。
究極の自分勝手という感じがした。
それがショックだったのだと思う。
ただ、こんなことを顕在意識で考えても、
潜在意識での認識というか、信じている概念が変わらなければ何も変わらなだろう。
ジャッジしてレッテル貼りをしているのは潜在意識だからね。
ただ、そのためには最初は顕在意識で認識するところからしか始められないと思う。
今はその段階なのだろう。