からかうってどういう心理か?
からかわれるとき、
自分が笑われていると感じていた。
しかし、おかしいのはぼくではなくて、
ぼくをおかしいと思う感覚の方ではないか?
からかう側にもいろいろあるだろう。
それが見下す気持ちからなのか?
親密さの表現なのか?
前者だったら受け入れて、後者だったら上手く切り返すのが理想みたいに考えていた。
どっちにしろぼくには難しい。
だからからかわれるのは嫌だと思っていた。
最近はそうじゃないと思うようになって来た。
相手がどう思っていようが、からかわれるのは嫌なのだ。
そんなことされたくない。
だったらそう言えば良いのだ。
空気が悪くなろうが、そんなこと知ったことか。
それは空気を気にする人がどうにかしろよ、と思う。
そうは思うが、自分の本心じゃない気がする。
どこかで気にしなきゃ良いじゃんという思いもあるのだ。
からかうというのは、平均的な人間像から外れているという指摘だと捉えている。
当たり前だけど、その平均的な人間像もからかう人が勝手に思ってるだけだ。
そう考えて、最初に思い出すのは、小学生だった頃の感覚だ。
先生に怒られる、学級会などで同級生にチクられる、そんな感覚。
その後はろくなことにならない。
しかられたりして、酷いときは親にも連絡が行って、家でも怒られる。
だから目立っちゃいけない、変なことをしちゃいけない、平均的だと安心するのだ。
こうやって個性を封じ込めることを教育されて来たのだなぁ、と強く思っていた。
そしてその教育は未だにぼくの中で効果を発揮していて、
もしかしたらぼくが自分の個性を出せなくしているのかも知れない。
また、怖れの正体が分かった気がした。
平均的人間像から離れ過ぎたらその人は悪だと思っているようだ。
平均的人間像なんて全く想像出来ない。決めようがないだろう。
実体の無いお化けのような存在だ。
こう考えて来ると、からかわれて嫌がるのは無駄なことのように思えて来た。
自分の中で起こっていることを観察すると、いつも思うことがある。
それは、激しい感情が出て来るようなときは、自分の中の概念に反応することが原因なのだ。
実は他人や出来事は反応のスイッチを入れてるだけで、あんまり原因ではないということ。
つまり一人相撲なのだ。
他人の言動はきっかけに過ぎない。
誰かが、「はっけよい、のこった!」
と言ったら、それまで何をしていようがそれをなげうって、
一人で相撲を取り始めるようなモノなのだ。
想像すると、とても奇妙でシュールな光景。笑えて来る。
この一人相撲をやらなくなればやらなくなるほど自由に近付くと思う。
今回も一人相撲のスイッチから原因の概念に連なる回路をひとつ見つけられたと思う。
ぼくの中にはこういう回路が沢山有るので、やれやれと思うけど、
外せば外すほど自由になるので、自由を目指す身としてやるしかないという感じ。