なんで退屈するのだろう?
上の動画の一部を抜粋し要約する。
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退屈の正体は依存のサインだと言う。
今やどこに居ても映画などが観られる。
コンテンツをどこにでも持って行ける。
こういった画面から脳に送られる刺激にによって、身体はドラッグに近い化学物質を生成する。
私たちはこれに依存している。
では、退屈から逃れるためにどうしたら良いか?
ただ座って、退屈が通り過ぎ去るのを待てばいい。
部屋でひとり静かに座って居られないという状態が
人間の抱える問題の根幹だと言われて来た。
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ぼくは最近は退屈とか暇だとかあまり感じない。
以前は退屈でしょうがなかったこともあったけど、気付いたら感じなくなっていた。
特に生活が変わった訳でもない。ほとんど予定もなく、のんびりしているだけだ。
やらなければいけないことなんて無いと思うようになったのが大きいかも。
むしろ、働いていた頃の、やらなければいけないことが沢山有ったときの方が
退屈を感じることが多かった。
予定が無い=退屈という感じで、何かしないと間がもたないような感じだった。
当時は動き続けることを大事にしていた気がする。
とにかく多くの事をすること、早く結果に辿り着くこと、そのために生きていたようだ。
当時から読書が趣味だったが、
今考えると、常に斜め読みで、多読乱読という感じで今となってはほとんど内容を覚えていない。
仕事では、先の先を読みながら先手を打つというような感じで、常に仕事のことを考えていた。
当時はそういうことが考えることで、頭の使い方だと思っていた。
思考してるというよりも、ほとんど反射的に処理していたように感じる。
経験を積むことで、その経験に必要な思考回路みたいなものを組み上げると、
それ以降はその回路をぶん回すだけで、それ以外は考えない、というような在り方だ。
一度思考をと止めたら、もう一度動かすのが大変だと考えていたのかも知れない。
だから、ボーッとするということが苦痛だった。
何もすることが無いということが苦痛だった。
その苦痛は退屈だという思いを伴って感じられた。
そういう生き方をしていると、
自分の中を観察したり、自分が今感じていることを味わうなんて全く眼中に無かった。
何のことを言っているのか分からないという感じだ。
その後適応障害を発症して、担当業務を変えられるのだが、
今はそれ以前の記憶があまり無い。
ただ単に自分をいじめていただけのような気もする。
生きた心地がしないとはあの時のぼくの心境かも知れない。
こう書いて来て、生きるにはその人に合った固有のペースが有るのかも知れないと思う。
また、経験には、
事柄を経験することと
自分の内面で起こっていることを味わうこと
の2種類があって、
その両方が揃って初めて充実した人生になるようだ。
適応障害以前は、事柄過多で内面過少の生き方で、
適応障害以後は、事柄過少で内面過多の生き方という感じもする。
今まで内面で起こっていたことを味わって来なかったから、
今になって後追いで味わっているという感じもするけど。記憶の反芻みたいな。
退屈と感じるのは、ここで言う事柄過多で内面過少の生き方をしている時に感じるのかな?と思う。
だから、退屈は内面で起こっていたことを味わってないよ、というサインとも言えそう。
それにはボーッとしたり、考えるのを止めて頭を空っぽにしてただ感じる時間が必要だということ。
そんなこと、あの頃のぼくに言っても全く聞く耳を持たなかっただろうけど、
やっぱり必要なことだと思う。
必要じゃない人にはサインは現れないだろうから。