昔は全く逆に考えていた。
周りに貢献したら、それによって自分が満たされるだろう、と。
そんな経験をしたことはないのに、何故かそう思っていた。
自分が満たされないのは、周りへの貢献が足りないからだろうと、自分を急き立てる理由にしていた。
そうやって、自分と向き合うことを避けていたのだと思う。自分と向き合うということのやり方も意味も知らなかった。
感情を、特にネガティブな感情を出すのは良くないと思っていた。
感情は抑圧するか爆発させるか以外の対処法は知らなかった。
今気付いたけど、そういう自分と向き合わないとか感情を抑圧するというのは、周囲の大人を見て吸収したのだと思う。
実際にぼくの周りの全ての大人が自分と向き合わないで感情を抑圧してた訳じゃないだろう。
ぼくが孤独を囲って生きて来たのは、誰からも相手にされないという思いが強かったからだ。
実際に気にかけてくれた大人もいたかも知れないけど、ぼくの方が心を閉ざしていたのかも知れない。
心を開くということも、その方法も知らなかったと思う。
だから、ぼくの周りの大人がぼくに対して言うことや示す態度は、従え、文句を言うな、という風にしか思えなかった。
それをそのまま覚え込んで、自分でも自分に対してそのように接していたのだろう。
だから、自分と向き合うということは一切しなかったのだな、と今気付いた。
周りに貢献するという言葉の中身も、人によって違うだろう。
ぼくの場合は、周りからの要求に応えるというようなことで、言われたことをするということだ。
貢献すると言うと主体的な感じがするけど、当時のぼくにとっての貢献は完全に受け身だったな~
言われたことをその通りするというのも大変だけど、それは外のモノに自分を合わせるという大変さだ。
また、他人の要求に応えることでその人を喜ばせようというのは、コントロールの一瞬だと思う。
他人を自分の思った通にしようとするのは全てコントロールだろう。
良い悪いということではなく、その発想には無理が有るということだ。
他人を完全にコントロールすることなんて出来ないと思う。
面白いのは、他人をコントロールして満たせば、自分を満たせると思っていることだ。
他人をコントロールすることで自分をコントロールしようとしている感じがする。
何でそんな遠回りする方法を選択するかと言えば、
それしか知らないから、そして、自分が何をしようとしているのかが分かっていないからだろう。
自分を分かっていない状態で、他人のことなんて分かる訳ない。ましてや満たそうなんて、かなり難しいと思う。
自分を満たしてから、周りへ、と言うのは、自分を知ってから周りを知ろうとする、と言い換えられると思った。