ぼくはこれ↓ばっかりやって来た。
細菌やっと楽になったと感じる。
自分と向き合うって、
言葉は分かるけど具体的にどういうことか分かり難いかも。
子どもの頃から自分と向き合わないように
仕向けられて来たから分からないのもしょうがない。
A、Bの2人がいたとする。
<事例1>
AがBにボールを投げた。
Bにボールが当たった。
Bは痛かった。
<事例2>
AがBにバカと言った。
Bはそれを聞いた。
Bは嫌な気持ちになった。
事例1の場合、Bはボールに痛くて嫌だったとする。
Bにボールが当たる、という事象にはいくつかの要素がある。
それが揃わなければ、この事象は成立しない。
①AがボールをBに投げる
Aに投げさせない。
②Aが投げたボールがBに当たる
Bが避ける。
③Bは痛みを感る
痛みを感じなければ良い。
身体を鍛えるとか、甲冑を着るとか方法は有るだろう。
事象2の場合、Bはけなされたくなかった。
この事象の要素を考えてみる。
①AがBにバカと言う
Aに言わせない。
②Aがバカと言ったのをBが聞く
Bが聞かない。
③Bは嫌な気持ちになる
けなされたと思わなければ良い。
あるいは、けなされたことを気にしなければ良い。
Aは冗談を言っているとか、そんなのは相手にしないとかいろいろ有るだろう。
事象1だと、ほとんどの人は②を選ぶと思う。
しかし、事象2だと、①しか考えられない人も多いと思う。
①を成立させないというのは、
頼んでも聞き入れられるかは分からない。
じゃあ、羽交い絞めにするか?と言えばそこまでは出来ない。
絶対に投げさせないというのは難しいだろう。
他人はコントロール出来ない。
②を成立させないというのは、
物を避けるとかは出来るだろうけど、
言葉を聞かないというのは無理だろう。
③を成立させないというのは、
自分を変えるということだ。
自分と向き合うとは、
事象2で③の要素を外す作業だと、ぼくは思っている。
何でバカと言われたら嫌な気持ちなるのだろう?
と自分の判断の手順を観察して行くのだ。
そしてその過程で、
自分が抑圧していた感情や考えが分かって来る。
それらを本当に知って認めると、
それらは成仏すると言うか、気にならなくなる。
バカと言われても、
以前ほど気にならなくなる。
バカという”音”を聞いてもどう反応するか?
はいくらでもバリエーションは有るのだ。
バカと言われたら必ず怒る、というのは縛られている気がする。
選択出来ないのだ。
自由が無い。
モノは考えよう、と言うが、
その意味するところは本当に深いな~と思う。