自分の考えを主張するとき、
ぼくはいつも他人に納得してもらおうとしている、
ツッコミが入れられても、切り返せるようにしておこうと、
いつも構えていたことに気付いた。
そんな必要は無いんじゃないか?
ということを書いた。
この考えを支える概念が有ると気付いた。
そのことを書こうと思う。
それは、人はそれぞれ自分の世界に住んでいるようだという概念だ。
人はみんな住んでいる世界が違うという考え。
だから、ぼくが発信することは、
ぼくの世界での考えだ。
だから、他人が住んでいるその人の世界のことは分からない、
と思うのだ。
例えば、ぼくがこだわっている自由とか、自信とか、自分軸とか、
こういうことは全て概念だと思う。
考えなんだ。
だから、ぼくの世界のことで他所では通用するかどうか分からないと言い切れる。
言い換えれば、ぼくの世界での考えは、
ぼく以外の誰にも分からないだろう、
とも言える。
だからこそ、これを発信する意味が有るのだと考えている。
自分にとって、
どんなにつまらない考え、当たり前の考えだとしても、
それは自分の世界では、という前提が付いて回る。
だから、他人の世界ではそれは非常識だったり、
新発見につながるヒントに成り得る。
そういう意味において、価値があるのかも知れないと思う。
でも、それは自分では分からない。
発信したモノを受け取った相手が感じることなんだ。
ぼくはぼくの世界の言葉でしか表現出来ない。
それは日本語と呼ばれる言語の範疇だが、
言葉ひとつひとつの定義はぼく独自のモノになっている。
概念も全てにぼくのアレンジが入っている。
しかし、ぼくの文章を他人が読む場合、
その人の辞書、その人の世界の概念と照らし合わせて理解しようとするだろう。
だから、おそらくぼくが発信していることが、
そのままの概念として伝わることはまず無いということ。
これには気を付けないといけないだろう。
それでも、ぼくは自分の考えを発信する意味は有ると思う。
おそらく本当に伝えたいことは言葉での表現を飛び越えて伝わるんじゃないか?
そんな風に信じている。