書道家が書いても、
読めない字なら、
それは自分にとっては癖字なんだ、ということを以前書いた。
今日また、同じ書道家のブログを見て、
読めないな~と思った。
でも、感じ方が違ったのが面白かった。
これ、『正』という字らしんだけど、
ぼくにはタンポポの種のように見えた。
読めなくても、
文字の意味以外の、何か自由なイメージというか、
言葉にしにくい何かを感じた。
前のブログで癖字と書いたときは、
悪い意味で書いていた。
権威者だからって、何やっても有難がると思うなよ、
みたいな。
今日もこの字は読めないと思ったけど、
全然悪意は無かった。
読めない字=癖字=良くないモノ
ではなく、
読めない字=字と言うより絵=何でもアリ
みたいな感じ。
ちょっと視点が変わるけど、
こんな感覚も有った。
以前は、
読めない字=ぼくに対する拒絶=敵対心
でも、今日は、
読めない字=形が面白い=好意
字を書いている時点で、
何かを伝えたいという意図が有ると思う。
それなのに読めない、
となった時に、
それは読める人だけ読めれば良いというつもりであっても、
字の意味以外の何かを感じて欲しいというつもりであっても、
何であれ、敵対心は無いのが普通だと思う。
でも、そこに拒絶されたと感じるとしたら、
それは自分の中に有る思いではないか?
と思う。
ぼくに分からないように書いていると感じるのは、
そういうことが有り得る、もしくは経験したということかな?と。
でも、今日は拒絶されたと感じなかった。
ということは、その元となる、ぼくの中の思いが消えたのかも知れない。
そう考えると少し自由になったようで、
ちょっと嬉しい。
癖字が悪ではないとしたら何だろう?
癖字は個性です。
長々と考えて当たり前の結論。