達筆な文字が読めなかった、
ということを書いた。
多くの人が感心し、
褒めたたえているであろう文字が読めない、
ということに対する、コンプレックスのような気持ちは何か?
と思った。
それは多数派に入れなかったという仲間はずれのような感覚。
みんなに理解出来て、自分(だけ)分からないという劣等感。
そんな重たい気分がまとわりついているような感じ。
自分で書いて、読み直してみて分かったけど、
これは全てが自分の考えでしかない。
ぼくの中で何が起こっていたのだろう?
自分が今のままの良いと判断出来ることを求めていると感じた。
良いと判断出来ないのは自分が悪いと思考で断じていた。
それが嫌な気持ちを誘発していた。
他人軸になっていた。
こんな些細な事にまで、他人軸と自分軸では感じ方が違うのだ。
改めて実感した。
嫌な気持ちになっていることに気付いて、
自分主体というか身勝手なくらい自分軸の考え方に切り替えられたのは、
ぼくにとって快挙だ。
今までなら出来なかったどころか、
嫌な気持ちになっていることにも気付けなかったかも知れない。
そういう気付かない内に抱いた自分を責める気持ちが、
ストレスを生む気がする。
気付いていないから消えないし蓄積するだろう。
それはどれだけの負担になるか分からない。
その負のパターンから意図的に抜け出せたという経験はぼくにとって大きい。
ちょっと嬉しくなる内的経験だった。
こう観察してみると、
自分軸で居るために大切なのは、
嫌な気持ちを見過ごさない、
嫌な気持ちのままで自分を放っておかないということのようだ。
自分を大切にする、
とういうことかも知れない。
依然のぼくには確かに自分を大切にするなんて考えなかった。
自分の気持ちよりも、やらなければいけないことをやる方が大事だと思っていた。
そういう思いの強制力たるやハンパ無い強さだった。
今もその考えはまだ有るから他人軸になるのだろう。
でも、以前よりその強制力はだいぶ弱まったと感じる。
写真って一枚でこれだけ楽しめるものなんだねえ。
知らなかった。