今日の昼食に魚の煮付けが出ました。
ぼくは煮付けが好きじゃないのです。
それは食事を作ってくれている母親には伝えていました。
何か無視されたような気がして嫌でした。
でもせかっく作ってもらったんだし、ぼくが我慢すれば済むことだし。
そう考えて、また自分を優先してないと気付きました。
ちょっと迷いましたが、やっぱりちゃんと伝えた方が良いと思って言いました。
「サカナ煮付けは好きじゃない。」
すると母親が、ちょっと心外だという感じで、
「それキンメよ。キンメの煮付けは美味しいって言ってたから。」
そんなこと言ったかな?と思いましたが、
嫌いだと言っているのに、とちょっとカチンと来て、
「サカナ煮付けは好きじゃないんだ。」
そうは言いましたが、全部食べてました。
それからずっと嫌な気持ちが続いていました。
それが何故なのか分からず、それも気持ち悪かったです。
しばらくして、何で気持ち悪いか分かりました。
サカナの煮付けを美味しくないと思ったのは本当です。
でも、キンメの煮付けを美味しいと言ったというのが、
そしてそのことを忘れていたことで、自分が分からないとなっていたようです。
でも、それがぼくという人間なのです。
そういう風に感じることが有るし、そういうことを言うことが有るのでしょう。
サカナの煮付けが美味しくないと感じることは有っても、
それが「好きじゃない」というのは自分で考えているだけで、本当のことは分からないんだと思います。
極端に言うと、サカナの煮付けが常に美味しくないと感じるとは言い切れないと思うのです。
つまり、サカナの煮付けが「好きじゃない」というのは考えでしかなくて、実際には有り得ないと言うか。
サカナの煮付けが「好きじゃない」という場合、それは過去の経験の累積でしかないのです。
今までサカナの煮付けが美味しいと思ったことが無い(と記憶している)ので、
自分はサカナの煮付けは選択しようと思わない、というのが嫌いの意味でしょう。
未来永劫美味しくないと感じるかどうかなんて分からないのです。
母親の証言のおかげで、サカナの煮付けを美味しいと言った経験も有る、
ということがこの気付きの突破口になったように感じます。
そのことに気付いて、凄くびっくりしました。
そして、ぼくの中で、その表現が間違っていることが引っかかっていたようなのです。
自分の中で今まで普通に使っていた「好きじゃない」が、
実は自分の本心では無いということは、顕在意識で考えると大したことじゃない気がします。
でも、自分が平穏で居ることを優先しようと決心した、その視点から見ると
自分が何をどう感じているか?をより正確に把握する必要が出て来るのです。
それがとても大事なことなのだなと思いました。