本日は、ある揉め事の最終局面?を迎えました。冷静にみてみれば、母の、自分に自信がないが故に見栄をはって外堀を立派にすることで自分を保っている、という面をはっきりと理解しました。都合のいいことしか聞かず悪いことは記憶を改ざんしてしまうことも。弱さ故の依存体質であることも。内ではなく、外に探そうとするから、結果的にこうなっているのだと。なんてみっともなくちっぽけでつまらないんだ、と。冷静な大人の目で見ることができるようになった私は、そうやって自分の周りのことを理解しました。
母の言葉に一喜一憂していた自分を卒業できたのも、ここ最近の葛藤のおかげだった。物事は批判せずに、うまくいかないことは手放して、存在に、光に包んで下さいとお願いしてしまえばいい。それでいいのだと。
そうしてしまえば、私からは残念に見える母のことは、残念な母、そのものとして受け入れてしまえる。そう、そのまんまを受け入れてしまってよい。くだらないちっぽけだと感じたならそれを批判しない。そのままの感情を受け入れる。そして、相手がそうやって生きてきた過去と今を認めて、これから先も相手が自分の道を自分で進むことを信じる、ただそれだけでいい。
許す、というのはそういうことなのかもしれない。
何かに力を加えて良い方向に導くことは、その何かを批判しているということでもある。それはそのものは、それだけで最善で最高の状態だと思うんだよね。だって、命ってそういうものでしょう。
ぶっちゃけ、何かをクズだ低脳だと感じたなら、それはそれでいいのだと思う。自分の心の狭さを許す、ということにも繋がる。何かを批判せずにジャッジせずに、なんていうのは、まだまだ先の未来でできるようになればいいだけであって、今はまだ、自分を許すことで他人も許せるようになる、という学びで十分なんじゃなかろうか。まだ全然、自分を許せていないから、わたし。
まぁ、何かを批判するということは、自分の中にそういった部分があって、まだそれを許せていない、という事実に繋がるのでしょうから、そこを許してゆく、ということが一番の近道かな。
今まで自分が正しいと思っていたものの、正反対の道を進んでいる人をみると、くだらない、とジャッジしてしまう自分がいます。それもまた許してしまおう。そうすれば、必要な学びがやってくるから。
近頃は、何かの区切りの最終地点のような感覚で、浄化を感じます。私が本当に根っこにおいてきた学ぶべき部分が、これでもかと言うくらいに浮かび上がってきます。自分はまだまだだなぁ、とかなりへこみますが、それが自分に今、必要なことなのでしょう。
母の言葉に一喜一憂していた自分を卒業できたのも、ここ最近の葛藤のおかげだった。物事は批判せずに、うまくいかないことは手放して、存在に、光に包んで下さいとお願いしてしまえばいい。それでいいのだと。
そうしてしまえば、私からは残念に見える母のことは、残念な母、そのものとして受け入れてしまえる。そう、そのまんまを受け入れてしまってよい。くだらないちっぽけだと感じたならそれを批判しない。そのままの感情を受け入れる。そして、相手がそうやって生きてきた過去と今を認めて、これから先も相手が自分の道を自分で進むことを信じる、ただそれだけでいい。
許す、というのはそういうことなのかもしれない。
何かに力を加えて良い方向に導くことは、その何かを批判しているということでもある。それはそのものは、それだけで最善で最高の状態だと思うんだよね。だって、命ってそういうものでしょう。
ぶっちゃけ、何かをクズだ低脳だと感じたなら、それはそれでいいのだと思う。自分の心の狭さを許す、ということにも繋がる。何かを批判せずにジャッジせずに、なんていうのは、まだまだ先の未来でできるようになればいいだけであって、今はまだ、自分を許すことで他人も許せるようになる、という学びで十分なんじゃなかろうか。まだ全然、自分を許せていないから、わたし。
まぁ、何かを批判するということは、自分の中にそういった部分があって、まだそれを許せていない、という事実に繋がるのでしょうから、そこを許してゆく、ということが一番の近道かな。
今まで自分が正しいと思っていたものの、正反対の道を進んでいる人をみると、くだらない、とジャッジしてしまう自分がいます。それもまた許してしまおう。そうすれば、必要な学びがやってくるから。
近頃は、何かの区切りの最終地点のような感覚で、浄化を感じます。私が本当に根っこにおいてきた学ぶべき部分が、これでもかと言うくらいに浮かび上がってきます。自分はまだまだだなぁ、とかなりへこみますが、それが自分に今、必要なことなのでしょう。