脱走したプチさんを追って辿り着いた先は彼女がいつも泥遊びに熱中しているであろうお砂場でした。
心の安定を求めてきたのか、純粋に遊びたくなってしまったからきたのか、パニックになってわけも分からずきてしまったのか。
改めて振り返ると色々分析する余地はありましたが、何を思ってこの場所に来たのか、焦っていたその時の私にはその心を慮る余裕はありませんでした。
今姿を消してしまってはいくら何でも先生方に心配をかけてしまうから、競技には参加出来なくてもいいから、ただあの場にはいてほしいとがむしゃらになって捕まえ、無理矢理抱き上げて急いで戻りました。
ちょうど競技を始めるところで先生にどうにかプチさんの身柄を託し、手放してしまった観戦場所を再び探すことにしました。
プチさんは暴れたり癇癪を起こしこそしませんでしたが、とてもこの後の競技に参加してくれる気がしませんでした。
結果、この競技最中の脱走こそなかったもののほぼ棒立ちでした。皆で力を合わせなくてはいけない競技だったのに。
皆の真ん中でぼんやりと立つプチさんに対してはあの場にいてくれるだけでよかったと思う反面、
頑張っていた同じクラスの子達には申し訳ないな、という思いが湧いたのも確かです。
プチさんのことが全てではないですが競技はお隣のクラスに惨敗。無邪気に喜ぶ子たちの歓声が刺さりました。
続く年中さん年少さんの競技をぼんやりと目にするもどうにも頭に入ってきません。ただ、皆の輪から少し外れて先生に助けられている子ばかりがどうしても目に入ってきました。
先生に助けられているといってもプチさんのように脱走したりする子はいません。
園で一番悪目立ちする年長児の姿を皆どう感じるだろう。
障害を受容してもどうしても常に付きまとうのはその思いばかり。
私自身が自分の運動会をいつも楽しみにしていて大好きな行事だっただけに、子供の運動会を観ることがこんなに辛くそれも自分ばかりがこんなにも楽しめず神経を尖らせるように見守らなくてはいけないのは何でだろうと暗い気持ちで佇んでいました。
そうしているうちに再びやってきた年長競技、ダンスの時間になりました。
何が起こるかは神のみぞ知る。
もし何かが起きたら私は恥も外聞もなく走らなくてはいけない。
諦めに似た気持ちで覚悟を固めて子供達が入場してくる様子を見守ります。
その時、担任の先生が私の観ている場所のすぐ近くにしゃがみこみました。
あらかじめその場所に待機することになっているのか、私が"ここにいるから"やってきたのか。
どちらにせよ恐らく私の気持ちを一番理解してくれるのはきっと先生のはず。
先生は電話で何があった時の対処を様々考えて伝えてくれた。
何が起きるかわからないけれど娘が運動会に参加出来るようにたくさん準備をしてきてくれた。
今はただ先生を信じよう。
それ以上は何も考えないように、スマホのカメラ画面に集中して撮影のタイミングを待ちました。
年長のダンスは合計10分弱の長丁場。
去年観た時もよくぞこんなにたくさんの動きを覚えたものだと年長さんのすごさに深く感心し、同時に次の年の運動会を思い不安になったものでした。
予行の時はちゃんと参加出来てたとは聞いたものの本当に周りについていけるのだろうかと首をかしげたくなるほどプチさんにとっては大変な競技のはずです。
ついに始まったその10分弱の時間。
瞬きするのも忘れるくらい前を見つめ続けました。
そして私は一度もその手のスマホを下ろすことはなく、その場を離れることもありませんでした。
担任の先生も。