成城合唱団における私の最初のミッションは、ブラームスの大曲『ドイツ・レクイエム』でした。

成城合唱団はその成立ちの経緯から、オーケストラ付き合唱作品を主たるレパートリーとして演奏活動を続けてきましたが、『ドイツ・レクイエム』はこの時が初めての取り組みです。

 

ラテン語のテキスト(ミサ典礼文)で作曲された一般的なレクイエムとは異なり、『ドイツ・レクイエム』はマルティン・ルターが翻訳したドイツ語の聖書からブラームス自身が選んだ詩句を用いたレクイエムです。全7楽章からなる長大な構成(演奏時間:約1時間15分)で、すべてに合唱が関わり、その出来が演奏の評価を大きく左右するといった、合唱団にとってはアンサンブルの技量と心身共にスタミナが問われる難曲です。

 

一番の課題はドイツ語でした。ハイドンの『四季』『天地創造』バッハ『マタイ受難曲』など、歌う側、聴く側が内容を理解しやすいようにと日本語訳詞での演奏をポリシーとしてきた成城合唱団は、ベートヴェンの第九交響曲を除いてドイツ語での歌唱経験があまりなく、特に若い団員にとっては難物だったのです。読譜はもちろん、合唱団全体がよどみなくドイツ語で歌えるところまで鍛錬することが合唱指揮者としてのミッションです。

 

譜読みが一通り終わった頃でしたか、小澤さんが練習を見てくださる機会がありました。私はてっきり小澤さんご自身が合唱の指導をなさるものだと思っていましたが、発声練習後、そのまま私が一曲目から振って小澤さんはそれを見守る形で進行しました。

全曲通した後、合唱団へ若干のアドヴァイスをされて練習は終了。私に特にコメントはなく、一番気になる私の合唱指揮者としての適否についてはわからずじまいでした。

何も指摘がないこと自体が小澤さんの指揮者としての厳しさと受け止め、本番指揮者と合唱指揮者の関係性をひしひしと感じました。後にも先にも小澤さんの前で指揮をしたのはこの時だけでしたので、まさしく私のテストだったのです。今日まで続けてこれたので一応は合格だったと勝手に思っているのですが、結局小澤さんには伺わずじまいでした。

私を常任指揮者に推挙し、何かとバックアップしてくださった成城合唱団の重鎮Kさんと奥様から、後に、小澤さんが「彼は当たりだね」とおっしゃっていた旨お聞きしました。

 

(当時使ったドイツ・レクイエムの楽譜。メモ書きがさすがに多く、使い込んだ形跡が各ページに残っています。)

 

私はこのブログの初めから「小澤さん」と呼んでいますが、それは仕事とプライベートの間にある厳しさと親しさのギャップや乖離を、たとえば「小澤先生」という呼び方では表現できないと感じるからです。歌手として小澤さんの前に立つときは、厳しいというより温かく励ましてくれるメンターのようでしたから、雰囲気にギャップはありませんでした。しかし、対合唱指揮者となると表情が変わります。

 

合唱団の古手の男性の団員たちは「セイジ」と呼び捨てで、女性の多くは「セイジさん」と呼んでいました。そのフレンドリーな雰囲気の中で、どうお呼びしたらよいか、いつも少し迷いました。

何故なら、小澤さんと私の音楽を創り上げるプロセスでは、間柄は師弟ではなく、あくまでも本番指揮者と合唱指揮者です。問わず語らずの中で、音楽の仕事の厳しさを示してくださったのだと思います。

私は心の内では小澤さんを師として、練習や本番での言動と後ろ姿から実に多くのことを学びましたが、それは「私(ひそかに)淑(よしとする)」ということでした。

 

1990年10月、3年近い練習期間を経て、関東各地で4回の公演を行いました。

小澤征爾指揮:新日本フィルハーモニー交響楽団  

Sop.斉田 正子 Bas.多田羅廸夫 成城合唱団

 

演奏会本番での合唱指揮者の仕事は、カーテンコールで小澤さんに呼ばれてソリストたちと一緒に舞台でお辞儀をすることくらいです。

「容易ならざる光栄」(室生犀星の詩「あさきよめ」より)でした。