1985年9月、小澤さんはベルリオーズ『ファウストの劫罰』で、征悦くんとの親子共演を実現しました。
小澤征爾指揮:新日本フィルハーモニー
合唱:成城合唱団、成城学園初等学校合唱部
成城学園五十周年記念講堂(現澤柳記念講堂)でのカーテンコール
そして同公演で私はブランデル役を歌わせていただきました。
小澤さんに出会えたからこその僥倖、それ以外の何ものでもありません。
左端が小澤さん、私は右から2番目、一番右は木村俊光氏
振り返ってみれば、以下のように1985(昭和60)年はその後の人生をほぼ決定づけた年と云って良いと思います。
・成城学園初等学校音楽専科非常勤講師(4年目)契約更新
・成城短期大学《音楽実習》講師拝命
・東京農工大学・女子美術大学混声合唱団常任指揮者就任
成城学園との縁が深まっていくのが感じられます。また、合唱指導機会の広がりも予感します。
『マタイ受難曲』と『ファウストの劫罰』の児童合唱の指導を通して、成城合唱団とも親交を深め、1985年の後半くらいからヴォイストレーナーとして、時々練習に参加するようになりました。
1987年のヴェルディの『聖歌四篇』の公演(小澤=新日フィル)では東京混声合唱団、成城合唱団に交じって合唱に参加しています。
1988年、長年成城合唱団の指導を続けてらした宮本昭嘉氏(東京混声合唱団指揮者)の退任に伴い、常任指揮者に就任しました。それ以前から指揮者不在時などに代役を務めておりましたので、一時の穴埋めのような感覚でスタートしました。
就任のご挨拶のため、小澤さんの成城のご自宅へ伺いました。
普通の日本家屋とは異なるヨーロッパ調の広々としたエントランスホールで、にこやかによろしくとおっしゃる小澤さんに、何かモゴモゴとご挨拶したような気がします。学校や演奏会などで度々お目にかかっていましたが、この時初めて「世界の小澤」のオーラをひしひしと実感したのだと思います。私の指導した結果を受けて、小澤さんが直前の数回の練習で本番を迎えることになるので、責任の重大さは云うまでもありません。
私が成城学園に骨を埋めることを密かに決意した瞬間でした。