1982年4月、成城学園初等学校の非常勤の音楽教師になりました。確か週3日の勤務で、課外活動の合唱部の指導も職務のうちでした。

 

成城学園についての予備知識はほぼ皆無でしたので、学園全体の個性的な気風には驚くことが多かったことを覚えています。

 

初等学校は特に変わっていました。実験研究学校を標榜し、「散歩の時間」「遊びの時間」「劇の時間」などが正規の授業として実施され、年間3回開催される「劇の会」など他校にない行事が多種行われていて、田舎の公立育ちの私にはかなりのカルチャーショックでした。

 

専科の音楽教育も一風変わっていて、「音楽の会」が年に2回あることも驚きですが、入学式・卒業式がほぼ子どもたちの歌で進行する斬新さにはいたく感動しました。

一方、戸惑ったのは歌唱時の発声で、ほぼ地声が推奨されていたことです。頭声的な発声を是として初等音楽教育を学んできた者としては、子どもたちをどう指導したらよいのか。

 

そんな板挟みを切実に感じたのは、成城学園の卒業生をメンバーとする成城合唱団から、マタイ受難曲の子どものコーラスを初等学校の合唱部で、というオファーがあったからです。しかも翌年の2月の演奏会で、と。

同期に着任した西谷さんと途方にくれて顔を見合わせました。発声はどうしたらいいんだろう。

 

この演奏会の仕掛け人は小澤征爾さんでした。

当時、お嬢さんの征良さんが5年生、征悦くんが3年生に在学しており、マタイ受難曲でのお嬢さんとの共演を熱望していたのです。

子煩悩な小澤さんは帰国するたびに学園を訪れ、時々ふらりと授業を見に来るといった具合で、私が担当していた征良さんの音楽の授業にも2、3度、それも突然いらした記憶があります。

 

評判通り気さくで腰の低い偉ぶらない方で、若輩の二人の音楽教師に

「指揮者も色々いて、オケの音を聴いていないのもいるんですよ」

 ―ーえっ?何を聴いて指揮してるんですか?

「自分の頭の中で鳴っている音ですね」

 

こんなお話をして下さったことをよく覚えています。

その時は、指揮者は今鳴っている音をよく聴くべしというアドバイスとして受け止めましたが、ことはなかなか深遠で、自分では何も音を出さない指揮者が自分の求める音楽をどのように表出するのかという観点から、ただよく聴くだけではスコアをなぞるだけの演奏になりかねない、と、指揮者ならではの課題をおっしゃったのではないかと、今になって思ったりします。

 

小澤さんと私は、保護者とお子様の担当教師、本番指揮者と合唱指揮者、指揮者と歌い手、の3通りの関わり方が交錯しながらこの40年余を過ごしてきました。

素晴らしい40年間でした。だが申し訳ない40年間でもありました。

少なくても、小澤さんがいらしたから今の私があることは確かです。

 

2024/2/11 旧ミュージックホール 成城合唱団定期練習

小澤さんの遺影をピアノに飾り、黙禱とフォーレのレクイエムの

アニュス・デイを歌いました。

 

小澤さんの死去によって私の中にポッカリとできた空洞を、このようなささやかな想い出で、少しですが、埋めようと思います。