ポリーニのシューマン
久々に、マウリツィオ・ポリーニのシューマンを聴く。
曲目は「交響的練習曲」と、付録のように入っている「アラベスク」。
当然だが上手い。メチャメチャ上手い。
1960年に18歳でショパン・コンクールに優勝した時、
審査委員長だったアルトゥール・ルービンシュタインが言った。
「技術的には、この中(審査員)のだれよりも上手い。」
その上手さゆえに、時には「音楽が冷たい」などと批判される
こともあるが、大学では物理学を専攻し、理科系の頭脳を
持ったポリーニは、いたずらに感情に溺れず、客観的に作品の本質
を追求する姿勢を持つ。
ポリーニが生まれ育ったミラノは、イタリアでも地中海からは遠い
北部に位置し、気候風土はむしろドイツに近い。
彼がシューマンに深い思い入れを持つのは、そのことと無関係
ではないかもしれない。
同様に得意とするショパンには、常に明るさが付きまとう。
地中海の島で愛人と暮らしながら作曲したショパンには、
「葬送」などの暗いテーマの曲にも、どこかに明るさと希望が見え隠れする。
それは、祖国ポーランドへの愛国心と、革命の理想がそうさせているのだ。
対照的にシューマンは、通奏低音のように暗さが支配する。
人間存在への根源的問いかけ。
後に精神に異常をきたす、哲学者的資質。
だが、それは厭うべき暗さではなく、どこか懐かしい、郷愁を誘う暗さなのだ。
逆説的だが、安堵、安住と表裏をなす暗さである。
一言で言えば、ブラームスの交響曲にも通じるドイツ的な暗さ。
ポリーニは、この暗さに、人間の真実、魂のありかを見出したのかもしれない。
私がシューマンの虜になったのは、昔、指揮法のレッスンを受けた時だった。
桐朋の講師をされていた高階正光(たかはしまさみつ)先生は、
斎藤秀雄先生の創始された指揮法のメソッドを、最も正確、忠実に受け継がれた人である。
高階正光先生 近影
斎藤秀雄先生の弟子には、小澤征爾をはじめ優れたオーケストラ指揮者になった
人は数多くいるが、斎藤指揮法の伝承者として、斎藤秀雄先生に匹敵する優れた
指揮法の教師になられた人は、高階正光先生お一人である。
基本的な指揮技術の習得と、いくつかの教材曲を2台のピアノで弾かせて、それを
指揮するというレッスンの形。教材曲のひとつに、シューマンの「子供の情景」が使われる。
他の教材曲では、指揮の技術に関して非常に厳しくレッスンされたが、
シューマンに関しては、なぜか感情表現を重視された。
「おねだり」というタイトルの一曲があるが、先生は、
「子供のころ、『ママあれ買ってよう』とおねだりした記憶を思い出して、振ってごらん。」
などと、実に具体的だった。
シューマンを振りながら私は、なぜか不思議な懐かしさと安堵感に包まれていった。
それ以来シューマンは、私の魂を捉えて離さない。
最近のライブ
12月24日(金) 山野 ミナ クリスマス・ライブin グラバー亭(谷町5丁目)
矢藤 亜沙巳(Pf)
唐口 一之(Tp)
おなじみ、ミナさんのクリスマス・ライブである。
サンタ姿がまたかわいい。
抽選会ではマスターとの掛け合い漫才などもあり、
楽しいステージだった。
ヴォーカル活動を始めた、今年を締めくくるライブである。
ラストは、今年ミナさんが最もよく歌った、お得意の
「グッディ・グッディ」で締めくくった。
来年のさらなる飛躍を期待したい。
12月25日(土) AZUMI クリスマス・ライブ in JAZZ ON TOP 梅田本店
AZUMI (Vo)
西本 貴至(Pf)
三原 脩(B)
畑 ひろし(G)
今年から東京で活躍している、AZUMIさんの帰阪ライブである。
今年は東京進出、初CDを出すなど、飛躍の年であった。
お歌が、より洗練されてきているように思う。
抽選会では、かわいいサンタの人形ケース付きのお菓子が当たった。
クリスマス・ライブならではの楽しい趣向である。
来年のさらなる飛躍を期待したい。
一万人の第九
恒例の「一万人の第九」が、今年も大阪城ホールで行われたようだ。
「~ようだ。」というのは、私は行っていないからである。(笑)
このイヴェントの是非については、様々な議論があるが、
今日はそれには触れないでおく。
新たな別の問題に触れてみたい。
今回、初参加した歌手の平原綾香が、第三楽章の旋律に
歌詞を付けて歌ったというのだ。
このニュースを聞いた時、「えっ」という驚きと、
ちょっと前に起こった芸能界のトラブルを思い出した。
歌手の森進一が、ヒット曲「おふくろさん」に自作の歌詞を
付加して歌ったのを作詞家の川内康範が激怒し、
森に「おふくろさん」の歌唱を禁止したというあの出来事である。
作家の存命中および死後50年が、著作権の保護期間であるが、
「第九」はベートーヴェンもシラーも、死後50年以上経っているので、
もう著作権は存在しない。
そして、著作権が存在しなくなるということは、
作品が人類共有の財産になったことを意味する。
個人が勝手に手を入れてはならないことを意味するのだ。
取り締まる法律が無かろうと、それは人々のモラルとして守られねば
ならない。
名所旧跡の世界遺産がそうであるように。
今回の「一万人の第九」の、佐渡裕がプロデュースし、平原綾香が
作詞歌唱した第三楽章の手入れは、
この、モラルに抵触する行為ではないだろうか。
平原は以前、ホルストの「惑星」の旋律に作詞歌唱し、大ヒットした。
あれはホルストの旋律を借用したに過ぎないという解釈で、セーフだった。
しかし今回は、ベートーヴェン作曲交響曲第九番ニ短調「合唱付き」
作品125を全曲演奏する中で、ひとつの楽章の中に、
もともと存在していない歌を、しかもドイツ語圏で作られた楽曲の中に
日本語の歌詞で、ベルカント唱法を体得していない歌手が歌う
というのは、本来の作品の価値を損ねているのではないか。
「第九」の各楽章には、それぞれの役割、性格がある。
厳粛な音楽で問題提起をする第一楽章。
あわただしいテンポと細かな音の動きが、不安な意識
を醸成する第二楽章。
ゆったりとした美しい旋律が、楽園、花園、憩いをイメージ
させる第三楽章。
そしてこの楽曲のメインテーマが、シラーの詩による
ソロと合唱によって堂々と展開される第四楽章。
それぞれの楽章が有機的に結びつき、全体を構成する。
異物が混入する隙間はない。
問題の第三楽章であるが、
とても美しい旋律で作られたこの楽章は、
実はこの曲全体の中では、否定されるべきものとして位置付け
られているのである。
続く第四楽章の、バリトン・ソロの冒頭では、「友よ、そのような調べではなく・・・」
というフレーズではじまり、前楽章の楽園を否定する。
そして、「全人類相抱き合え」という壮大な合唱へと流れ込んで行く。
人類愛という壮大なテーマを持ったこの楽曲の、
途中経過に過ぎない第三楽章に、LOVE STORYなる
男女の愛の歌を挿入させることに、はたして意味などあるのだろうか。
佐渡裕のこの種のスタンドプレーは、師匠のバーンスタイン譲りなのかも知れぬが、
大衆の啓蒙という意味合いがあるにせよ、
作品の本質を歪めてまで行うのは、行き過ぎではないだろうか。








