ドイツに嫁に来てもうすぐ20年です。

 

富山にいたときは、結婚式の司会の仕事も時折していたため、神前式や仏前式、チャペルでの宣誓など様々な結婚式を見てきました。日本人は実に宗教に対して柔軟です。お正月には神社に初詣に行くし、お盆にはお墓参りするし、クリスマスにはケーキでお祝いするし、婚姻に関してはカップルのお好みで結婚ができます。

 

「日本人は無宗教」とよく言われる所以だなぁと当時は感じていたものです。

 

ドイツに来たら、カレンダーはキリスト教の信仰に合わせて祝日が決められていて驚きました。また、美術館で素晴らしい宗教画が鑑賞できますし、日曜日の礼拝には未だに大勢の家族連れが参列しています。教会で研修会を受けて成人儀式を行う十代の若者も多いです。

 

暮らしで、底辺に「キリスト教」があって、そのことをお年寄りはもちろん、小さい子も自然と受け入れています。

我々日本人は、ゴスペル音楽を流行りのように聞いたり、アクセサリーで十字架を身に着けたりしますが、これは日本の人たちは欧米文化をいわば美しい花のように感じて、その花の茎から上をちょん切って自分のものにしようとする傾向があります。でもその下には見えない根っこがあり、土の中に広がっていて、それが花を支えているということまで考えようとしないのは残念ですね。

 

いや、私もそうだったのですが、こちらでドイツ人の主人や義理の両親、ドイツ人と親戚やご近所さんや友だちとの付き合いを通して、キリスト教に触れ合うことが多く、ちょっとずつ宗教観が変わってきました。

 

 

日曜日の礼拝には、月に一度は参列するようにしていますし、聖書の勉強会、まぁドイツ語の勉強を兼ねているのですが、定期的に出かけています。

 

でも、宗教、特にキリスト教にはどんな意味があるのか、それはまだ私にはわかりません。

ただ一つ私が最近抱いている思いは、重たい荷物を背負った時に、歩き続ける力を与えてくれるものではないかということです。

 

標高3千メートルの立山縦走では、重たい荷物を背負った時には、もう嫌だと途中で投げ出したくなるし、歩くのをやめて座り込みたくなります。まして天に向かってそびえ立つ剣岳を目の前にした時には、心が真っ暗な気持ちになり、一歩間違えれば足を踏み外して岩場から滑落するかもしれない。不安や恐怖で誰でも足がすくむのです。本当に辛い道のりでした。

 

そんな時に、信仰が応援してくれるのです。もちろん宗教のご利益で荷物が軽くなることはありません。むしろ信仰を持った方が、荷物の重さをひしひしと感じることになるかもしれません。しかし、それを投げ出さずに、歩いて前に進もうとする勇気や頼もしさを与えてくれるのです。

そんな時に心に仏様、イエス様の教えを思い返すことによって、言葉が光となって足元を照らしてくれるのです。

 

その人間にとっては、行く道の険しさは変わらず、歩く距離も変わらない、肩にずしりとのしかかるリュックサックの荷物が軽くなったわけではありません。でも、本人にとっては、その道が照らされているというのは、全然心の持ちようが違うものです。

 

実際、心持ちが変われば、足取りだってしっかりしたものになって、疲れも半分になるのです。あそこまで行けば頂上だという目的地が見えているからです。

 

心にプラス効果を加えてくれるのが宗教だな。これが私のドイツで学んだ宗教観となりました。

まぁ、そんなことを考える様になったのは、年齢とともに身内やご近所同僚の家族に不幸が多くなり、私がおばちゃんになった証拠でもあるのですが…。

 

教会に出かけて、神父さんの説法に耳を傾けることが、心強さや生きる意味を考えるきっかけとなっています。