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Memories of Life 人生の追憶
妻 夏子に捧ぐ。50代夫婦の 知り合ってからの30数年
の出来事を夫目線で書いています。

美智子が話し出した。

電話をもらえるとは思ってなかったので

泣いてしまってごめんなさい。


声が聴けて嬉しいと。
 

俺は単刀直入に聞いた。


ミッちゃん 何かあったのか?

もうよそよそしさはない、当時のままだ。

 

美智子がゆっくりを話し始めた。

それはないが、

子供が大きくなって長男と長女は大学に通い

家を出て一人暮らししている。

次女ももうすぐ高校を卒業する。

ご主人と2人になろうとしている時 

どうしてももう一度声を聞きたくなった。


そして声を聞いたら一度でいいから

会いたくなったと。

 

ご主人との生活は幸せではないのか?

と聞いた。

 

愛しているし、幸せだし 何も不満はない。

ただ 私に対する気持ちが当時のまま

残っていて自分で消化できないとのことだった。


私は美智子が何を言っているのか

理解できなかった。


それで


会えるかどうかわからないが

こっちも気持ちを整理して

もし会う気になったら

連絡すると答えて

電話を切った。


電話の時間は1時間くらいだった

他にも色々話したのだが

なぜか全く覚えていない



しばし考えた。

正直 俺は美智子のことは

完全に忘れていたし、

声を聞いてもあまり感情の起伏はなかった。

夏子にぞっこんだったのでね。

 

それと美智子の気持ちと自分の気持ちの

間にある大きな温度差に戸惑っていた。

 

今更そんなことを言われてもね

とゆうのが正直な気持ちだった。

 

しかし、わざわざ私の出身大学まで

出向き大学と交渉までして

私に手紙を届けようと

してくれたという尋常ではない

熱意のようなものは感じていた。

 

それで、

美智子の気持ちもわからんでもない

と思うようになってきた。

なぜここまで?

という疑問が湧いてきた。

それで考えてみた。

 

当時 こっちは一方的に振られた格好だ。

美智子は別れる時に連絡もせず 

手紙を送っただけで

その負い目のようなものが

あるんじゃないか?

一度会って話をすることで

ぽっかり空いた空白のようなもの

を埋めたいんじゃない

のか?


それで一回くらい会ってもいいかと

思い始めた 。

同時に事態を悪化させることも

ありうる。


それで夏子に話をした。

 

夏子は表面上は驚きもせず 


そんなことがあったんだ。

女としては 気持ちはわかる気がする。

中途半端に終わったことで

一度けじめをつけるとゆうか

整理をしたいんじゃないのかな?


 

美智子に懐かしさはあるが

気持ちはないよ


正直な気持ちだった。

 

夏子はほとんど表情は変えなかったが 

嫉妬はあるのかもしれない

わずかな戸惑いは見て取れた。

 

俺は夏子に言った。


これで終わりにしてもう連絡はしない。

 

夏子は少し考えて意外なことを言った。

 

一度 会ってあげたら?

22年ぶりの手紙にはこう書いてあった、

 

今は結婚して京都にいること。

息子さんと娘さん2人がいることなどの

近況が書かれていた。

 

最後に

 

あの時は本当にごめんなさい。

 

家を飛び出して親と絶縁してあなたのところに

行くことも考えました。でも出来ませんでした。

 

あれからあなたのことを忘れた日は1日もありません。

今でもその時と同じ気持ちです。

 

俺の部屋で一緒に聴いた音楽や、一緒に行った旅行のこと 

今度のボーナスで一緒にどこに行こうかと

考えていたことなど鮮明に覚えていて書き綴られていた。

 

そして そのことだけ伝えたかったと書かれていた。

できれば一度だけでいいので声を聞かせて欲しいと。

 

正直

美智子には悪いと思ったが 私は全く心が動かなかった。

 

しかし、何か切羽詰まったようなものを感じた。

 

何か重大な問題でもあったのか?

 

病気でもう長くないとか?

 

何れにしても手紙をもらったし返しておいた

方が良いと思い、

会社の封書で事務書類として返信した。

 

すぐに手紙が帰って来たので家族の人たちが

 

いないであろう平日の午前11時頃に電話をした。

 

3回くらいで 美智子ですとゆう声が聞こえた。 

 

さすがに歳をとってはいたがあの頃と同じトーンだった。 

 

ケンです。お久しぶりです。


。。。。。。。。。。。。

 

 

 

 

電話が来るとは思ってなかったのだろう。

 

少し間が空いて、

 

ハーーー  とゆう声がして

 

その後が続かない。沈黙が続く

 

しばらくそのまま

 

美智子が話し出すのを待っていた。

 

 

話は約10年前 私が46歳の頃に遡る


夏子の浮気騒動がなんとか落ち着き

家庭が平穏に戻った頃 私の実家から

一通の郵便物が届いた。


お袋が言うには私が卒業した大学から

私宛に郵便が来たので

こっちに送ったとのことだった。

 

開封してみると 大学の封筒が入っていた。

そこにはお手紙を預かりしており、お送りいたしますとゆうメモがあった。

 

開封して見て驚いた。それは22年前に別れた美智子からのものだった。 

 

見覚えのある文字 最後に美智子と書いてあった。

 

どうやって私の住所を調べたのかも書いてあった。

私の出身大学に行き 学生課に住所を聞いたが

個人情報なので教えられないと言われ、

それで昔大変お世話になったので手紙を

届けたいと

交渉したら大学側が実家に手紙をお届けすることはできますとのことでそのように

依頼したとゆうことが書かれてあった。

 

最初に 

22年前 私のアパートに来るはずだった日に

行けなかったこと。

その後連絡もできなかったことの謝罪

から始まり、私のところに泊まった翌日 

家に帰ったら父親に男と一緒にいたんだろう

と言われ、髪の毛を掴まれ玄関に投げ倒さ

れたこと、連絡も、手紙も出せなかったこと、

親の目を盗んで短い文章の手紙だけ

送ったことの謝罪の言葉が述べられていた。

確か、その手紙にはこう書いてあった気がする。

 

会いに行けなくて連絡もしなくて御免なさい、

私はお見合いで結婚することになりました。

あなたのことは忘れます。

でもこの2年半は本当に幸せでした 

ありがとう、さようなら。

 

良家のお嬢さんであり こうゆうことはありうるとは思っていたが、本当にあるんだなとゆうことと、今更 美智子の家に行ってもどうにもならないし却って迷惑だろう。俺はまだ23歳になったばかりの若造で何者にもなっていなかった。

ここは身を引くべきだと判断し、

そのままになっていた。

 

その手紙を受け取った数日後 美智子の友達から 荷物を預かっているので返して欲しいと美智子から頼まれたとゆうので 

カフェで会って話をした。

美智子に貸したウオークマン(昔のカセットテープのミュージックプレーヤー)などが入っていた。

一番高価なBADWINのヒューストン オイラーズのスタジアムジャンパー

(俺が着ていたものを美智子が貸して

くれとゆうので 貸したもの)

は入ってなかった。

これは一生の思い出として持って行くとゆう

美智子の意思のような気がして

それはそれで納得していた。

友達はこう言っていた。

 

ミッちゃんはケンさんといる時は

Kenさんだけにしか見せない笑顔を持っていたんだよね。

2017年 夏

 

7月の初め 夏子と私は 尾瀬ヶ原にいた。

以前は毎年行く家族イベントだったがここ数年は

時々しか来ていなかった。

 

2年前に来た時は雪解けが早く6月頭にはもう水芭蕉はほとんど無くなっていた。

地元の人に聞くと 

水芭蕉はゴールデンウィーク明けに

満開だったそうだ。

例年なら 

湿原全体がまだ雪に覆われている頃だ。

 

湿原にはワタスゲの白い小さな花が

咲き乱れている。

 

鳩待峠から 山の鼻までは結構な雨だった。

 

山の鼻で一旦休憩して 美味い水を飲み干す。


竜宮に向かって歩いていると雨が止んだ

 

レインスーツを脱ぎザックにしまう。

見晴らし入り口あたりで晴れて日がさして来た。

振り返ると至仏山が見える。山の頂にはまだ雪がある。

 

天候も悪く平日なのでハイカーがほとんどいない。

 

ザックから

カメラを取り出した。

12mmの超広角レンズで夏子と風景を

一緒に撮る。

 

例年なら六月頭に満開を迎える水芭蕉よりも夏に最盛期を迎える日光キスゲよりも 

はかなさを漂わせた白いワタスゲの

群生が一番好きだ。

 

アヤメ平まで登れば水芭蕉はまだ満開だろうか。

 

今回はそれをせず 

まっすぐ見晴らしまで行きその終点の 

弥四郎小屋に一泊した。

久しぶりの山小屋泊だ。


ちょうど昼時に山小屋に到着する。

チェックイン前に 小屋のテラスで

軽い昼食を摂る。


受け付けは20歳代前半の可愛らしい

女性が対応してくれた。

我々の装備を見て山に登ってきたと思ったのか

至仏山の雪はどうでしたか?と聞かれたが

今回は登ってないと答える。


年齢は娘のミクと同じくらいだろう。

山が好きで バイトできているそうだ。

そうゆう女性が何人もいて

宿泊客の受け入れ準備で

忙しく動いている。

山ガールは確実に増えているようだ。

尾瀬は比較的楽にいけるし行程も治安も

含めて安全なので特に若い女性の単独行は

よく見かけるようになった。

今年は 了平は彼女と一緒に行くらしい。

あまり使わない山の道具のいくつかを

了平に譲った。


山小屋に到着後、荷物を降ろして

ヒップバッグだけの軽装にして

飲み物とカロリーメイトと

おにぎりだけ持って。

東電小屋方面にライトハイキングする。

 

見渡す限り広大な湿原には

私たち2人だけだ。

 

気持ちがいいねと 二人で話す。


何枚か2人の写真を撮影した。

マンフロットのテーブル三脚にカメラを

乗せて、タイマーをセットし、

シャッターを切る。

正面から見た12mmレンズに反射した

景色には2人の全身のアップと

広大なバックが映し出されている。

 

東電小屋に到着し小休止する。

それから 同じルートを見晴まで戻る、

目の前には広大な湿原しか見えない。

 

三条の滝に行きたかったが大雨の影響で

ルート閉鎖されていて諦めた。

 

山小屋に戻ってカフェでしばしBreakする。

窓から湿原の向こうに雪を

かぶった至仏山が見える

真っ青な空にスジ状の雲が伸びている。


部屋に戻り寝っ転がってしばく休む。

疲れてはいるが気持ちがいい。

最近は個室で泊まれる小屋も多く

民宿に泊まっているのとあまり変わらない。

 

今日は空いている、と思った矢先 

山小屋の従業員が慌ただしく

行き来し始めた。


窓からは湿原の向こうに 

こちらに向かってくる小さい隊列が見える。

チェックイン時刻ぎりぎり 午後4時

に四国からの団体客が到着し

小屋がごった返していた。

 

風呂も30分で終わるとゆう。

自然保護区ゆえ洗剤は使えないが 

温泉だからか とてもサッパリする

 

ごった返す狭い共同浴場でさっさと

風呂を済ませ帰って来たら夏子が

後から戻って来た。

 

夏子は まるで芋洗だね。

私が湯船に浸かっていたら立ったままお尻を

こっちに向けて前かがみになって体を

洗っている人がいっぱいいて 

せめてあっち向けてくれればいいのに 

全部丸見えで勘弁して欲しい

と愚痴をこぼしていた。


オレが見たかったと言うと 

このエロオヤジが  と言って 殴られた。

 

部屋の窓を開けると

目の前に大湿原が現れる。

小屋の庭のアウトサイドテーブルに

集まった 団体客や 

我々と同じ少人数のグループが座り

賑やかに談笑している姿が見える。

大ジョッキで楽しそうにビールを

飲んでいる人たちがいる。

皆、それぞれ話に余念がないようだ。

 

太陽が傾いたところで湿原が赤く染まり

幻想的な風景を映し出した。

 

後何回来れるかな?

 

その風景を写真に撮り、肩を寄せ合って 

日が落ちて暗くなるまでその景色を

ずっと観ていた。

 

人生の追憶 第3章 完

 

第4章 美智子からの手紙

第5章 息子と娘に 父より

    

あとがき に続く

そんな状況で時間が過ぎて行った。

 

12月の初め 夏子から話がしたいと連絡が来た。

 

夏子のアパートに1ヶ月ぶりくらいに行く。

 

Ken 色々ありがとう。

 

もう十分休めたから そろそろ帰ろうかと思ってるんだけど

ミクの新学期前にしようかと思ってるけどどうかな?

 

いいんじゃないか?こっちはいつでもいいよ。

 

3月になっちゃうけど大丈夫?

 

全然問題ないよ。

 

わかった。ありがとう。

 

最近さあ、金子さんの奥さんの犬の散歩コースが変わってね 

ちょうど出勤時間にこのアパート前でよく会うのよ。

 

生田さんの奥さんが付かず離れず後を歩いて来たこともあったしし。そんなに興味あるのかなー?

 

まあ興味を持っていただいているとゆう事で

これも俺たちのスタイルだから

 

本当に みんなこうゆうの好きよね。

 

それで

年末年始にKenのお母さんとみんなで旅行に行かない?

お母さんも もう歳だから

あと何回みんなで集まれるかわからないし。

 

快諾した。

(夏子は礼を言われることを好まないので

言葉で感謝は伝えていないが 心の中で感謝した。

彼女はわかっているだろう)

 

それで 正月に家族全員で奥日光に旅行に行った。

 

この年は雪が少なく スタッドレスで十分だった。

いやスタッドレスすらいらないくらいだった。

湯ノ湖 湖畔のホテルに泊まった


夜はさすがに氷点下だ

暖房をつけ 家族5人+コーギー犬のランディーで 談笑する


余談だが

 うちは(というより私が)スピッツ系の犬が好きで 歴代ドッグは全てダブルコート+ ブルーアイだった。

シェットランドシープドッグのリュウノスケ(芥川龍之介からとった) ハスキーのアル(英国の貴族ミュージシャン アル スチュワートからとった)

コーギーのランディー(The Eaglesのオリジナルメンバー ランディ マイズナーからとった)は尻尾は切っていない。13歳だがままあ元気だ。

ヨーロッパ(ドイツなど)では既に断尾は禁止されている。犬などの動物はそれなりに金もかかるが 家族の潤滑剤にもなって良いと思う。犬は人間の2歳くらいの知能はあって 賢いし 首輪を持っていると自分から首輪に頭を突っ込んできたりする。散歩に行きたいという意思表示のようなものだ。


表情筋が人間ほど発達していないから 分かりにくいが嬉しかったり 怒ったり 悲しんだりするくらいは顔を見ればよくわかる。

どうでもいい話だが。


翌日は 朝食の後  水面から霧が立ち上る

湯ノ湖の湖畔を散歩してから

戦場ヶ原、湯川などに行く。

 

お袋は足が悪いのであまり歩くのはやめて

その後で行きやすい 観光コースを主に回る。

 

東照宮と華厳の滝 明智平は何度も来てはいるが一応定番なので見て回った。

 

良平とミクは

 おばあちゃんの周りから離れない。

東照宮の階段では2人で支えてサポートしている

彼らなりに気を使っているようだ。

 

1年ぶりに会う祖母とたくさん話ができ

貴重な時間を過ごしたようだ。

 

来年もみんなで出かけられるだろうか?そんなことを夏子と話していた。

 

夏子は私の母親に 今はすぐ近くに別居してるけどもう十分休ませてもらったし近いうちに

帰るから心配しないで欲しいと話していた。

 

私の母親は少し驚いていたが ある程度事情を話したらすぐに理解したようだった。

 

夏子さん大変だったね。ありがとう。

息子のことは ほっといていいし(おい)

私のことも どうしてもの時は息子がなんとか

するから自分のことを一番に考えてね

 

夏子さんには結婚する前からも結婚してからも

ものすごく よくしてもらっているんだから

本当に大事にしなさいよバカ息子 

と言って帰っていった。

 

旅行が終わり 母親を実家に送り返す。

 

ミクだけがついてきた。おばあちゃん

まだまだ元気そうだね。

お母さんもあと三ヶ月くらいで帰って

くるのかー 呑気なもんだ。(この性質は私譲りだろう)

 

まあ娘が間に入ってくれたおかげでより丸く押さまった感もある。

 

ミクにも感謝しないといけないな 

それに最近は17歳にしては落ち着きも出て

大人びて来た。嬉しいことだ


夏子が骨やすめの旅をしていた頃

 

ミクは 自宅の離れの私のオフィスによく来ていた。

ミーティングテーブルで勉強しながら 

私が仕事をしているのを間近で見ることに

興味があったようだ。

 

私 大学卒業したら ここに就職できないかな?

などと言うが 従業員を雇うつもりはないと返事する。

将来性がないし、そろそろ引退も考えていたしね。

 

私は 音楽も大好きで、若い頃からクラシック、

ROCK, JAZZ, JPOPなんでも聴くし自分でも演奏する。

 

オフィスのBGMで流していたMiles Davisの演奏が

気に入ったようだ。

それでトランペットをやってみたい言い出した。

 

もう高校2年だし、ウォータースポーツをやっていたから

音楽はど素人だし上達はあまり望めないだろう。

でも、趣味でもいいからやってみたいとゆうので

音楽教室に行ってみることになった。

また金がかかる。ま、休み中は私のオフィスで

バイトで雇って返してもらうことにした。

多少の社会勉強もできるだろうし。

 

それからは私の趣味の部屋に来て名演奏なるレコードを

かたっぱしから聴いたりして

入り浸りだ。

この黒い円盤からこんないい音が出るの?

とか言いながら

目をかがやかせながら聞いている。

 

これまでの色々なことがなかったら 

私も自宅の離れに事務所は作っていなかったし

こうはなっていなかっただろうと思うと

不思議な偶然を感じる。

 

今 ミクはMiles Davisのトランペットがお気に入りだが、

初めてWhen I Fall in Loveを流した時は涙を

流しながら聴いていた。

 

トランペットの演奏なのにこんなに感動するんだね。

お母さんに、お父さんとお母さんが知り合った時

のこと聞いたよ。

 

寝室に飾っている ワーゲンのボンネットに

2人で腰掛けて寄り添っている

20歳の頃の夏子と25歳頃の私の写真を見ているみたいだと。

感受性が強いことはいいことだ。

うれしい事を言ってくれる。

 

あの演奏はマイルスのトランペッドだけではなく それを固めるミュージシャンも一流だ。レッドのピアノ、フィリーのドラムス、 ポールのウッドベースが阿吽の呼吸で融合して みんなそれぞれ独特のセンスがあるから あの感動的な音楽表現になっているんだよと言ってみる。

 

フンフンと聞いている。

 

  BILL EVANS の ピアノも好きらしい。

私と趣味があう。

娘との会話が楽しい。

 

娘と趣味を共有できるのがこんなに楽しいとは思わなかった。

 

1950年代から70年代でも JAZZの名演奏と言われるソース
は膨大にある。
聴けば聴くほど まだまだ好きなものが出てくるだろう。
マニアックになりすぎなければいいがもう遅いか。

でも いい音楽をいっぱい聴くことは 

気持ちを豊かにしてくれるから私は好きだ。

夏子が家を出ていった時 20歳になったばかりの

大学生の息子 了平はアパートを借りて一人暮らしなので

家にはいなかった。

まあそのうち帰って来るんじゃないの?と

この気楽さは父親譲りか?

ちょっと反省する。

 

妹のミクは17歳で家にいた。

出て行った時は離婚するの?

と不安がっていたが。

 

心配するなと

 

これまでにあった いろいろなことを話した。

夏子の浮気は話してないが。。

おばあちゃんが認知症で施設に入ったこと。

叔父(夏子の兄貴)さんが統合失調症で 隔離病棟に入ったこと

おばあちゃんの家に誰もいなくなってしまったこと。 

夏子はその一連の整理をして帰って来たが 

うつ病になって、2年近くかかってなんとか完治した事。

(これはミクは知ってはいたが、いつも私が一緒にいたし 

そのケアのため月2回夫婦であちこち旅行に行っていたので

それほど深刻と思っていなかったようだ)

私の母親が病気になった時 

ケアをしてもらっていた事 など話した。

 

ちなみに夏子の兄貴は以前結婚していて

3人子供がいるのだが、元奥さんと夏子は仲がいい。

兄貴は病気が進み、一度自殺未遂したあと離婚し

グループホームに入った。その後隔離病棟に入ることになる。

 

ミクに お母さんはずーっと休みなく

大変な思いをして一所懸命やって来て 

ものすごく心が疲れているんだ。

何も考えず 何もしなくていい

自分だけのために自由に時間が使える

そうゆう休暇が必要なんだと説明したら

わかった と 納得したようだった。

 

ミクは 私も協力するし、お母さんに楽をさせてあげたい

と家事を一生懸命やりだした。

 

その後は嬉々として何も心配はしていないようだった

が夏子の事を何かと気にかけるようになり

頻繁に連絡を取り合い 夏子のアパートにも

よく行っていた。

 

部屋にロフトがあって秘密基地みたいで楽しいとか 

泊りにもよく行っていたし

夏子のアパート(レオパレスだけどな)

から通学したりもしていた。女同士色々話したんだろう。

 

食事は夏子がいるときも基本 私が作っていたので問題ない。

自宅の離れのオフィスで仕事を始めてからは 

ほぼ私が食事係だった。 

ミクが夏子のアパートに行くとゆうので

これ持って行ってやれよ 夏子が好きだから

と言ってクラムチャウダーと自分で焼いたパンを

タッパに入れて渡したりもした。

 

こんなの作ってたんだ。

 

俺も好きで多めに作ったからな。

 

お母さん喜ぶよ みんなで一緒に食べようよ。

 

結局俺も行って食べることになったりしたが 

家族の会話に全く違和感もなく

単に夏子が単身赴任しているような気分だった。

(歩いて5分だけどな)

 

帰る時は じゃあ またな と言って普通に帰る。

 

暇があるときは娘が料理を教えて欲しいとゆうので

料理も一緒にした。

 

お父さん料理本当にうまいよね。

なんで?と聞かれたので 

お父さんも18歳で一人暮らしを始めて

お金もなかったから安い材料で自炊していた。

どうせなら美味い方がいい。それで

お金をかけずに美味いものを作ることをずーっと考えていた。

仕事の機械設計も料理も同じだ、

どうしたらうまい(良い)ものが作れるか考えるのが

好きなんだと説明した。(家事はしないから暇なだけだけど。)

 

もっともほとんどの レシピは全てパクリで、

後で適当にアレンジする程度だし、

和食はうちの母親から伝授されたものも多い

がほとんどはプロが書いた本を読んで

 

覚えるようにしていた。

 

栗原はるみ さんのレシピはセンスを感じて好きだ。

田中 彰伯氏の フライパンで楽々フレンチはとても役だったし

今は自分の頭に入っている。

和食では 谷昇氏の一連の レシピは私のバイブルになった。

 

娘に 本当に凝り性だよねと 夏子と同じことを言われた。

 

女は子供を産んで子育てをしながら家事もやり

色々することがあるから

凝りすぎると やっていけない。

凝りすぎるのは男の性質だと。

模型を組みたてるイメージで料理するんだと。

(本当か)

 

人類の歴史からすれば女は昔からすみかを守り

男の主戦場は 外だった 家にいても趣味くらいしか

やることがないし 

DNAに組み込まれている性質なんじゃないのかなと

 

モノを作ったりするのは男は性質上好きなんだろう

と説明する。

 

ミクは私が自宅の離れに作ったオフィスを

ここも秘密基地みたいで楽しいと

言ってよく遊びに来ていた。

  (夏子が以前言っていた)ホテルみたいだね

  とか言われないかドキドキしたが 大丈夫のようだ。

 

 夏子の家出事件がなければ

娘とこうやってゆっくり話をすることも

なかっただろう。

そんなことがあり 変わった夫婦だと近所には見られ、

あそこは離婚したとかおばさんの噂になっていたが。

 

戻ってきて普通に一緒に歩いていたらあれっと

ゆう顔をされたり微妙な挨拶をされたとかいろいろあった。

 

あそこの奥さんが探偵のように私を監視してたよ とか。 

 

夏子が時々アパートから自宅に歩いて帰ってきた時は 

興味津々のおばさんが 

あなたの帰るところはそこじゃないでしょう?

とゆう顔で見ていたよとか、

 

近所のおばさんの犬の散歩コースに夏子の

アパート前が加わったとか。

観光バスじゃあるまいし。 

 

今では笑い話だ。

 

夏子は8月に突然キレて出て行き翌年の3月のある日

買い物から帰ってくるようになんの違和感もなくだたいまー

 と言って帰ってきた。

 

今は喧嘩しても出て行くとゆう言葉はない。

 

まあ、いろいろあったしこりとゆうか、

残った残留物を小さいものでも全部出し切った感じだろうか?

 

夏子の浮気騒動、一家離散 

その後も認知症で施設に入っている母親のケア、

(時々しかできないが)、兄貴の様子の確認など、

疲れていただろう。その間も 私の母親の病気があり

そこまでしなくてもいいと言ったのだが。

夏子は一旦仕事を辞めて世話に来てくれた。

本当に感謝しかない。次に何かあった時は、

既にセミリタイヤした私が ケアするから

できる範囲でいいと伝えている。

 

私の母親は 幸い 復活してまだ元気だし

今も山菜採りくらいは行っている。

医者に言わせると驚異的に元気らしいが。

それでも弱ってきているのは否めない。

もう90歳も近くなって来たしいずれ

その日が来るだろう。。

そんなことが重なって心身ともに

特に心は疲弊していたはずだ。

 

今回の事は

何も考えず 何もしなくてもいい

心の休暇だったと思っている。

 

夫婦には夫婦しかわからん機微とゆうものがある。

 

今は全く不安を感じない生活にはなっていて

長年の夫婦生活で最も安定感があるようにも思う。

 

大好きなベートーベンの交響曲6番で言えば第3楽章が

終わり第4楽章が始まったあたりだろうか。

 

余談だがベートーベンとゆう人は作品数も多いがピアノソナタ

なども良いものがいっぱいあって暗い曲でも

聴き終わった時になぜか温かい気持ちになったりする。

ハートが暖かい人だったんじゃないかと思う。

そうゆう意味でヒーリング音楽としても良いと

思うし最近 またよく聴くようになった。

 

できることなら このまま 平穏に過ごし 笑いながら死んで行きたい

と思う今日この頃。

交響曲6番のエンディングのように

穏やかに人生の終焉を迎えられればと願うばかりだ

私が 80歳まで生きたとして あと8400日ほどだ、

数字にしてみてみると 少ねーなーと思うが

生まれて今まで2万1000日ほどだから 少なすぎることもない気もする。

まあ それまで生きている保証もないが 

何れにしても人生の 終わりに向けてゆっくりとカウントダウンは始まっている
できるだけ長い時間 夏子と過ごせればと思っている。

そして、人生の最後が近づいた時

ままあ良い人生だったと言えれば そして夏子の手を取ってありがとうと言えれば

上々なのかもしれない。

 

うつ病を回復してから 何も問題なく生活していたが、

夏子が突然家出する。

 

つまらん喧嘩から夏子がキレて

近くにアパートを借りて一人で住んでいたとゆうだけだけど。

 

あとで回想すると 一人になって家のことも

何も考えず 好きなように生活するとゆう休養が

必要だったんだろう。

その時は 

 小さい冒険にでも行っているとでも思う事にした。

 

出て行った日にしばらくしたら帰って来ると

娘のミクに鍵を渡しに来たそうだ。

 

私はその時は仕事で外出していなかった。

歩いて5分のところのアパートだし、

時々着替えや荷物を取りに帰って来たりもしていた。

早い話が完全に一人になれる自分だけの部屋を

持ちたかったらしい。とゆうのは後から聞いた話だ。

 

夏子はその時すでにフルタイムで仕事に復帰していて

アパートから仕事へ行くスタイルだった。

お互い 定期連絡は取っていて

月に一度 程度 一緒に外食に行ったり

私が作った食事を出前として届けて近況を話しながら

一緒に食事したりもしていた。

 

この機会にパソコンも集中して勉強したいとゆうので

ノートブックを購入して持っていったり、

といった程度のことはしていたが

それ以上はお互い干渉しないスタイル。

 

あえて無理に会うことはしなかったし、

夏子が話をしたいとか会いたいとか

連絡したい時だけ対応していた。

 

夏子は自分のことだけに集中し 

他は何もしたくない 心境とのこと。

 

自由に好きなようにするのが一番だろうと思っていたし、

それを望んでいたからね。

 

人生に一回くらい 

一人きりになって考える時間も必要だ。

 

今になって思うに うつの人間に頑張れなんてことを

言う必要はない、

と言うか言ってはいけないんだろう。

 

体が動かない、気持ちが沈んでいるように見えても

本人が一番 頑張っている。それでもそうなってしまう。

それ以上頑張れと言う必要もないし言ってはいけないと

ゆうことを学んだ気がする。

だから 楽になれるように リラックスできるような環境で

過ごせるように配慮した方が良いんだと解釈している。

もちろん薬も使用した適切な処置も必要だろう。

 

私の友人は30歳の時3歳年下の彼女がいた。

すでに付き合いは8年ほどで5年間同棲していたし、

私と夏子も一緒によく遊んだりしていた。

結婚するもんだと思っていたが 突然彼女が出て行き 

2年後に他の男性と結婚した。

 

友人はショックを受けていた。

当時 彼女はうつだった。(らしい)しかしその頃の我々

はどうしたら良いのかなんて知識はなかった。

友人は彼女をなんとか立ち直らせようと一生懸命アドバイス

をしたり、協力したようだがそれが全て逆効果で、

彼女を追い詰めてしまった。

彼女は耐えきれず出て行ってしまった。

結局友人は未だに独身だ。彼女ほど想いをよせられる人が

いないとゆう。

 

友人だからなんとも言えない寂しい気持ちはあるが。

もう結婚などするつもりもないそうだ。アラカンだしね。

側から見ていても 抜群の相性のカップルだったと思っていたし、別れを聞いた時は本当に驚いた。

 

夏子がうつになってなんとか回復した様子を話した。

友人はなんで教えてくれなかったんだ 

もしその時にそれができていたら彼女と一緒にいることが

できたかもしれないと。と言う まあこれは冗談だけど

大昔のことだし。

 

友人は自分を責めているようだった。あの時

もっと視野を広げていればこんなことに

ならなかたんじゃないかと。

 

当時はそんな知識も

経験もなかったし、治療方法も変わって来ているんだろう。

たらればだが もし友人がうつが心の病気ではなく 

脳の病気であることを認識して 彼女が適切な処置を

受けることができ うまくケアすることが

できていたら違う人生だっただろうか?と考えることがある。

 

人生の巡り合わせのようなものを感じる。

 

彼女は 別の男性を結婚して子供ももうけたが 

うつは進行していき、とうとう統合失調症になって

しまったと聞いた。未だに旦那さんと一緒に

暮らしているらしいが。

 

本当に残念だ。

 

夏子の場合は運も良かったのかもしれないし、

本当に紙一重だったのかもしれない。

ただその時は必ず治ると信じて いや治らないわけはない

と思って日々を過ごしていた。  

これが功を奏したのかどうかわからないが 

夏子に言わせると私は相当に 気楽で前向きらしい。