
先日のジュエリー専門誌掲載の件で掲載文の画像を投稿した所、見づらいのでインタビューの全文をSNSに載せて欲しい、とのお声がありましたので、全文を投稿いたします。
よろしかったらご覧になってください。
JEWELも工房にストックがありますのでよろしかったら見にいらしてくださいね。
【JEWEL】4/1号2025 インタビューより〜

つくるひと
〜face〜
建守桃子/
Tategami Momoko
【己にかけていたプレッシャーに解放され私は私でいい。】
2020年にお父様である建守秀二氏との二人展をされています。ジュエリーに興味を持ったのはいつ頃ですか?
「短大を出て一般企業でOLをしていましたし、 亡くなってからです。今から27年前。父がジュエリー作家にもかかわらずそれまで全く興味もなく。ただ、環境的にはアートを観るという癖のようなものが身についていたかも知れません。亡くなるとき病床で手を握っていたのですが、その時最期にグっと力が入って。まるで龍が昇っていくようにパワーをもらった気がしたんです。これは私はやるしか無いって。ジュエリーを作ることを決めたんです」
とはいえ、技術も知識もなくては?
「私、できるんじゃないか、どうにかなるんじゃないかって。25歳の年齢で無謀な…。 ただ、父と交流のあった高田昇先生から『桃ちゃん本気なら僕が1年間だけ、この工房に来て、生徒さんを見てあげるから君も一緒に』 と、それで基礎を死に物狂いでやりました。
1年後は生徒さんも私が見るということになれば、もう生半可ではいられませんから。 その後も、色々なご縁で彫金やジュエリーを作ることを学んできました。それでも、父の作品が無言の教科書で一番の先生だったと思います。最初は皆目見当がつかなかったことが次第に自分の技術が身につくうちに分かるようになってきて、点と点が1本の線になるような瞬間が嬉しかったです。この27年目でやっと父にも作品を見てもらえるかなって。
本人は上の方で笑っていそうですけれど」
聞きにくいことですが、同じ作家となったことで父親と比較されてきたのでは?
「初めの頃はやはり気負いがすごくて、始めてから、3年目ぐらいの頃、私、これで大丈夫なのか?って。美大とかを出た方は基礎からちゃんとやって概念とかもわかりながらだと思うのですが、私のように無の状態の人は皆さんそう思うのではないかと。でも、学んだことで技術を習得することも大切ではあるけれど、感覚とか感性は人から学ぶことでは無いと思うので、たぶんそういうものは元から備わっていたのかなぁと。そこは父ゆずりところではあります。何より人に父の娘だからと言われるのは嫌ではなくて。というのも、 作品を見ると本当に父のは凄いんですよ。
一人の人間として『建守秀二』という個人で見て。父は家族でもそれぞれ個人として生きていて、たまたま一緒にいるという感覚で育てられました。それでも母は厳しくて私がジュエリー展に出すとき『落ちたら恥ずかしいからやめなよ』って。結構私落ちてるので(笑)。 それでも、ある日、受かった時に『あんたって粘り強いわね』と言ってくれて。私を一番厳しく見てくれている母にちょっと認められたようでうれしかったです。人からではなく、 自分が己にかけていたプレッシャーがそのころから解放されて、私は私でいいんだ、と思うようになりました」
今回撮影させていただいた七宝作品もそうですが、いろんなものに挑戦されてまだまだ成長の過程なのかなぁと
「模索しているところは多分にあって、私は作家としてまだ成長しきれていないと思います。何が私らしいのか。ただ分かっているのは、地金から自分で一から作っていくこと、 七宝でも何でも」
最後に、つくるひとになって、改めて建守さんにとってのジュエリーとは。
「私にとって、生き方を映し出し『言葉』の代わりのものだと思います。それは、身に着ける人も作り手も。ただ身に着けるモノではなく、人の精神と繋がっている役割を果たしていると感じています。身に着ける人の性格や思想や環境で選び取ったものを作り手は表現して、着ける人の下でそれは一つの文脈になって、そして両者ともが花開いてストーリ一ができる。というように。
私は、ジュエリーを作るとき、身に着ける人とじっくりお話をして、どんなものを求めているのかに応えられる人になりたいです。人と人を繋げる魔法のようなものがジュエリーだと思っています。
そういう仕事ができる場所を与えてくれたことは、父に感謝しています。
たてがみももこ●
東京生まれ/国際短期大学英語科卒業後一般企業に就職/1998年ジュエリー作家の父・建守秀二他界後、工房「スタジオリブ」を引き継ぐ/個展・グループ展出品/2006年公募・日本ジュエリーアート展入選以後入選多数