「『いのちの祭り』に行くことにした」
という人がいたので、調べてみた。
名前からして怪しい。とても怪しい。
スピ系っぽいなと思った。
いのちの祭り
開いて見てすぐに思った、「やっぱり。」
イラストは不気味で禍々しく、羽の生えた親子のような人物が龍に乗ってるではないか。
(聖書では人型の天使に羽が生えているという記述はない。)
「いのちの祭りとは」で
オープニングセレモニーでは神道の大地の神が降ろされ、神楽が奉納されました。
とあるが、神道の大地の神が..降ろされって...神が降りるってことだろうか?
人間主催の勝手なイベントに自由自在に神を降ろせるということなのか?
なんと安っぽい神なのだろう。それは人に崇められたいだけの悪魔悪霊であろう。
しかも
ドラゴンイヤーに12年に一度開催されるお祭りという伝説が生まれる
ドラゴンイヤーって...辰年のことなんだろうが...
ドラゴン、龍ってのは悪魔のことなのを知らないのだろうか。
彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、ヨハネの黙示録 20:2 (口語訳)
この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
アニメ界でも異世界ものや魔物系ばかりになってきている。
龍、ドラゴンは憧れるべきものでも、仲間にするべきものでもなく、
本来は人間の敵、つまり悪魔サタンのことなのである。
無知とは恐ろしい。こうやって人類は騙されているのだ。
エデンの園で騙されたのと同じように。
龍=ヘビ=悪魔を信じれば、自分が神のようになれる
という甘い囁きとともに。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。
へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、
ほんとうに神が言われたのですか」。 女はへびに言った、
「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、
これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる
ことを、神は知っておられるのです」。 創世記 3:1-5
人類は蛇に騙されてから、今でも悪魔悪霊の支配下にある。
キリストを信じ、神に立ち返ること以外に、支配下から逃れるすべは何もない。
神に立ち返らなければ、自然と悪魔悪霊の支配下にあるので
死後は自動的に悪魔悪霊と同じ行き先の地獄へ行くことになる。
それが嫌なら神を信じ、悪魔悪霊の支配下から脱するべきである。
ドラゴン信仰は悪である。悔い改めよ。本当の神を知れ。
地獄へ行くということはどういうことか。
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、
おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 それから、
死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
最後の審判では、死人は生き返り、黄泉にいる人たちも肉体を持って生き返る。
火の池は永遠に燃え続ける。火の池は死後の死、第二の死である。
「死ぬ」ということも「黄泉」の存在も、火の池に投げ込まれ、死ぬ。
ということは、火の池では死ぬこともできないし、
裁判を待つ間、黄泉のような場所で待機することもない、ということである。
つまり、死後、最後の審判の後の人類の行き先は2つだけ。
- キリストを信じて天国に行くか
- 信じないで火の池に行くか
「いのちの書」はキリストを信じた者の名前が書かれる書物である。
キリストを信じないならば、「いのちの書」に名前はない。
いくら良い人であろうが、いくら善行を積もうが関係ない。
御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。
いくら人の目に正しくとも、いくら努力しようとも、
神の目から見たら正しい人など一人もいないからである。
善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。
次のように書いてある、 「義人はいない、ひとりもいない。
すべての人は迷い出て、 ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、 ひとりもいない。ローマ人への手紙 3:12 (口語訳)
人間の努力で救いは獲得できない。
イエスキリストだけが、第二の死から人の魂を救うことができる。
あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。
この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが
十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人
イエス・キリストの御名によるのである。 このイエスこそは
『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、
これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。