「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の議論についてPartⅡ | 重箱の隅をつついて言うだけならなんとでも
前回の続きです。
前回記事は2012/06/13付『「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の議論について』
関連記事は2012/06/04付『自民党憲法改正草案について』

前回と同様に資料添付。※pdf

 自由民主党-日本国憲法改正草案(現行憲法対照)
   2004/4/15 自由民主党憲法調査会憲法改正PT議論の整理

たちあがれ日本-自主憲法大綱「案」

Twitter議論のまとめ

 Togetter-「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の違い

 Togetter-「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ

前回の記事で、自民党憲法草案が共同体概念を盛り込んだことにより、「公共の福祉」が民法の「公序良俗」の概念をもって「公益及び公の秩序」と表現を置き換えられた、ということを書きました。

憲法草案の条文とその構成からいけば、実際の立法や施策としての運用に関して、人権を公権力の上位に置いていることから、現行憲法から変わらないということにも触れました。

では、何が問題なのかと言うと結論から言えば以下。

この憲法草案の人権項目を超訳すると、
1.「国民は保護されるべき被統治民ではなく、統治主体なのだからそれをしっかり自覚して、
 人権の行使についても相応の責任をもって濫用すべからず( ー`дー´)キリッ」

と言いながら、同時に
2.「でも、統治するのはわれわれ政治家だから、あなたがたは被統治民なの(゚∀゚)」
って言ってることなんです。

で、これを補強しているのが第64条2項ってことになります。

1.の部分は前回の記事で書きましたので、2.の問題について。
人権における権利と義務のバーターという錯誤です。

基本的人権においては、権利と義務は独立した別のものです。
ここで義務は同時に発生しません。一人の人が保持しているのは権利のみです。
複数の人からなる社会において、その人が権利を保持することで、“他者に”義務が発生するという原理です(多分公民で習うハズ)。
なので、一人の人が持っているのは自身の権利と他者の権利に対する義務なんですね。
「義務よりも先に権利がある」というのはこういうことです。他者が存在しなければ、義務を負うことなく権利はその人のものとして存在するからです。
この他者の権利に対する義務と、その人自身が持つ権利との矛盾衝突を解決する為に、個対個の権利衡平が考えられるわけです。

一方で民法の契約における権利と義務は、ひとつの物事に関する権利と義務が一人の人に同時に発生します。
契約によってある権利を得ると同時に義務を負う、契約の相手は義務を負うと同時に相手から権利を受け取る、これがバーターです。
でもこの契約の際に、個人の自由意志に基づいてバーターにすればどんな契約をしてもよいのか?ということで民法90条で公序良俗に反する法律行為の無効が定められているんですね。

これを国家と国民の間に準用してきた考え方が、自民党憲法草案の「公益及び公の秩序」の考え方であると言えます。

恐らく、基本的人権の濫用は、他者の義務を増大させ、社会全体に無用の負担を与えることで社会を構成する多くの国民の権利と利益、秩序を損なう、というごく当たり前のことを憲法に明記しようとして、当てはまる言葉を探してみたら、一番近いのは公序良俗の概念だった、っていうところが実際なのかなぁ、とは思うんですよ。

でも、そこには厳然と理念の違いがあるわけで、特に個対個または個対公の関係を越えて憲法の目的という「国家による統治」と国民の関係性で考えた際に、国家が保持する統治の権能は、「個々の国民が“信託”した権利の束」に由来するのであって、国家そのものには国民に対する義務だけがあり権利はないのだから、国家対国民の権利義務のバーターというのはあり得ないんですね。
※例えば「自衛権」について、現行憲法でも「自然権に由来する」のでこの権利は保持されるとする、と考えますが、これは「国家自体」が自然権を持っているわけではなく、国家を構成する「国民の自然権の束に由来するものだから」保持される、ということです。

この契約の概念を持ち込むことによって、自然権の概念が統治形態に取り入れられていく過程にあった、ホッブズとロックの論の違いを踏まえると、絶対君主制における国家と民衆の関係として論じたホッブズの社会契約説を都合よく採用しながら、間接民主制をやろうとしているわけです。
これは、間接民主制によって選出された代表者たる政治家とは、国民にとってどういう存在であるかという認識における錯誤でもあります。
立法権を持つ議会を直接構成できるのは国民に選ばれたからですが、彼らは代議士であり指導者ではないということ。
※よく言われる「首相のリーダーシップ」とは、君主・指導者的な力量が求められているのではなく、利害調整能力、意見集約によって方向性を決める能力のことです。
代弁者であるだけで、一般国民に比べてより規範に近い公人ではありますが、彼らが保持する権利は一般国民と何ら変わりないわけで、支持し選出した国民の権利の束を持っていますが、それは預けられたものであって彼らの持ち物ではないのだということですね。
現行憲法12条、草案12条にも共に書かれているように、人権の保持に「不断の努力を要する」のは、国家による不断の努力ではなく「権利を保持する国民による不断の努力」なんです。国家はそれに従うんです。

ところが、憲法改正PT議論の人権や権利・義務に関する議論の論点を見るに、政治家を「指導者の立場」に置いた前提で論じられていることが分かります。

これが2.で書いたところの
「でも、統治するのはわれわれ政治家だから、あなたがたは被統治民なの(゚∀゚)」
っていうことです。

で、日本みたいな国民側に社会秩序を重んじる道徳・倫理観が発達している社会では、こういう状況に対して矛盾が感じられにくいし、ガバナンスの高さから実はそれが成り立ってしまうという。
これは、草案前文で自由と規律という相反するものを並立させて「重んじる」、とした記載にも表れていて、日本人にとってそれ程不思議ではない感覚です。
大震災時の被災地における秩序を見れば分かるように、個々の社会や他者に対する伝統的な認識の発露としてあるわけで、これは道徳観や倫理観に属するもの。
権利の法的限界点としてそれらがあるわけではなく、公共の福祉にある「自主規制」であると言えます。

また、前回の記事で書いたように、自民党の憲法草案は現行憲法との概念変更があっても、個を基調とした集合体としての社会を前提に書かれています。
家族を社会の最小単位としても、個の最小集合体としての家族を見ていますので、「家」の主体を家自体ではなく各個としていますから、個人主義は変わらずにそこにあります。
対照的なのが戦前や戦時統制下での「家」の概念で、個は家に属する、家の主体は家長を代表者とした「家自体」というものですね。

なのでこの草案でも、やはり重要なのは限界点を判断する主体としての個に置いていると読み取れるんです。
日本において個々が持つ伝統的な共同体概念を統治の重要なファクターとして前文で明らかにし、「国柄」という言葉に集約されるもののひとつである社会的な規範として掲げているのだから、それ自体が権利濫用の防波堤として機能することから、人権の限界にわざわざ公を盛り込む必要はなくて、「公共の福祉」から変える必要がないんですよ。

必要のないことをやろうとするのは何故かっていうと、ひとえに昨今の「人権の主張」が政治に対する「やり難さ」を生んでいるからなんだと思いますね。
議論の経緯を見る限り、理由はそれ以上でも以下でもないと。

以前、伊吹氏が文科相だった頃だと思いますが、
「人権メタボリック症候群」
と発言して、盛大に叩かれたことがあります。
これは今回と同様に、2005年における憲法草案でやはり「公益及び公の秩序」を人権規定として盛り込んだことの説明に関連した発言。

 【関連】 酔っ払いのうわごと-人権メタボリックシンドローム─名医の見立てかも

この頃、安倍政権下で「人権を恣意的に利用した利己主義と、それに乗じた特定のイデオロギー集団による日本の伝統的な価値観の破壊」の抑制を図ろうと、様々な努力がなされていたのですが、これに関連した伊吹氏の発言の意図は結局曲げて伝えられ、国民が権利についてコンセンサスを形成する機会は失われました。

でも、何故利己主義が伸張し、イデオロギー集団の跳梁を許したかを考えると、そもそもは政治が日本国の主権の下でそれを認めてきたからです。
「人権」を掲げて要求する対象として日本国が適当でなかったり、人権として要求するのが不適当な主張だったりするものに対しても、「それは筋違いですよ」と他の国民の権利を侵害するものは認めない態度として、国民に選ばれた代表者が明確にすることを避けてきたから。

その代表者たちを選び続けた日本国民の責任は免れませんが、だからと言って、彼ら代表者が「職業政治家」である以上、彼らの責任もまた免れません。
政治家が職業であることで支持基盤やその仕組みは固定化され、選挙に勝たねばならないことで国民に明らかにされる論点が固定化されることによって日本国民には限られた選択肢しか提示されていないからです。
なので、日本国民に対して、憲法という最高法規によって規範を示すことに賛同はできても、そこで権利と表裏のものとして義務を課すことは、彼らがこれまで歪めてきた「国民の代表者たる態度」(教育方針を国として決めることに対する教育側の反抗に対する態度も含みますね)の責任を国民に「おっ被せる」ものであると言えるのではないかと。

突き詰めれば、政権交代を国民が望んだのは、ある一方の権利が伸張することで他方の権利が侵害され続けている(ように感じる)ことに対する怒りであり、ならばこちらにも権利を約束してくれた政党を支持した(それが空約束で本心は大嘘だったのはナイショだが)、そういう空気を醸成する土壌を作ったのが自身らの政治における態度であり(そういう態度を続けていた者が交代先の政党の中心“も”占めていることもまたナイショだが)、情報の流通における民主主義の機能不全を国民の権利の下に正せなかった、何故なら公権力行使の権限を持つ行政を担当する与党を長くやっていたからだ、ということが野党になって国民との情報の双方向性を確保する手段を得てもなお、未だ理解されていない、国民を単に「愚かな選択をした」と見ている方がまだ党内に存在することの証左ではないでしょうか。

これでは、国民の選択も「ダメ比べとマシ選び」から脱することはできません。
今行うべきは、国民に広くコンセンサスを得ることであって、義務を創出することで国民を従順にすることではありません。
それには情報流通の正常化と教育の正常化が必要です。
そして、上記したように与党は行政責任者を出すので積極的に提唱しにくい。野党であるうちが大チャンスなんです。
数十年かかって歪んだものは、ありのままの姿へと回復させるまで倍の時間がかかると思うべき。
ただし、日本人は本来学究を好む聡明な性質を持つ(その一つの発露がオタク)ので、良心ある政治家はその時間の短縮可能性を信じて国民と共に歩むべきです。

また、国民も「カリスマ」や「強い政治家」など、“被統治民が望む統治者の姿”を自分達の代表者に投影しようとすることを止めて、「この人が言うのだから正しい」と思える“誰かを探す”のではなく、拙くても良いから自分の考えとして責任をもって政治が掲げる政策に支持・不支持・提案を表明する努力を始めないといけないと思います。

以上、草案の内容と人権に関して、一般的な理解に基づいてクダクダと書いてきたことを踏まえて、この憲法草案について、国民側からの改善提案をするとしたら

・「公共の福祉」に表現を戻すこと

もしくは

・どうしても「公益及び公の秩序」の概念を採用するならば、義務のバーターとして発動が容易な形で国民の拒否権とその行使方法を明記すること
※具体的には、内閣不信任の提出と共にその是非を国民投票にかけ、国民投票の結果を議決に反映する、不信任の発議を国民側からの請求で可能にする(国政に対する直接民主制の併用によるリコール制導入)、など

および、上記どちらを選択するかに関わらず、

・政党に関する第64条2項を削除すること

となります。

2005年当時、批判するだけ批判して国民の利益へと繋げることができなかったことを、国民自身が大いに反省すると共に、今度こそ「人権」と「権利」、「社会とは何か、国とは何か」について、広くコンセンサスが形成され、国民自身が主体となる憲法改正へと繋がっていく有益な機会として考え、かつ後の世代への財産となり得る形で決めていきたいですね。

最後に、ここまで分かりづらい文章を辛抱強く読んでくださった方に、心より御礼申し上げます。
多分、法律の専門家が書けばこんなに分かり難くならないと思います。
文章が分かり難い点が多々あるのは、ひとえにねこねこの勉強不足・理解不足を原因とする説明の下手さであり、それでもなお読んで下さった方々の理性と知性に深い敬意を表します。