「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の議論について | 重箱の隅をつついて言うだけならなんとでも
昨日は午前中の衆院予算委で、森本防衛大臣と石破氏の質疑がありました。
今日も午後の参院予算委で安全保障について森本大臣が答弁に立たれているのを見ながら。
政治としての安全保障の視点(石破氏)と、これまでの自衛官経験および有識者会議などの経験を踏まえた評論としての安全保障の視点(森本大臣)の違いが大きいことが示唆された質疑ではありました。
この構図は、前の大臣への質疑を国民が視聴することで基礎認識について学ぶことができたのと同様、今後国民にとって見るべきところの多いものになると思います。

さて、今日は主要各党が憲法改正について草案や大綱案を出した後、Twitterなどで話題となっていた
「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」
の議論について私見です。
前回は緊急事態条項に関するまなびとプロジェクトの講義視聴を中心に関連記事を書いてますので、ご興味のある方はご覧ください。
 【関連】 2012/06/04付 『自民党憲法改正草案について』

Togetterでは自民党の改正案と、それに加えてたちあがれ日本の大綱案についてが主眼となっているようなので、まず資料を。※いずれもpdf

 自由民主党-日本国憲法改正草案(現行憲法対照)
   2004/4/15 自由民主党憲法調査会憲法改正PT議論の整理

 たちあがれ日本-自主憲法大綱「案」

Twitter議論のまとめとして

Togetter-「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の違い

Togetter-「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ


この「公益及び公の秩序」という表現については、法曹関係者からも批判が出ています。
 【参考】 Wikipedia-憲法改正論議#公益及び公の秩序
   ※Wikipediaで出典のある批判は九条の会関係ではありますが。

今回書いたのは、条文全体を現行憲法と比較通読した上で一般的な理解による私見です。

問題提起としてTogetterでは
・「公共の福祉に反しない限り」が「公益及び公の秩序に反しない限り」に変わっている
・第21条の表現の自由の保障についての新設項目が「お上に都合が悪い言論の一切を潰せる」もの
・立憲主義の規定(第97条)の削除
※政教分離については、今回は触れません。

まず、結論からいけば、
条文の内容を見ればこの表現をもって「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます!」とやるのはただのアジテーションである、ということ。
だって、前文で
「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」
って宣言して
「基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、・・・云々」
「我々は自由と規律を重んじ・・・云々」
って書いてあるんだもの。

これを「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます!」と断じるのは、例えるならば安倍元首相が提唱した「戦後レジームからの脱却」について、「戦後に導入されたもの全て、基本的人権の尊重も否定するってことだ!」とやるのと同じ(“戦後レジーム”で検索すると、そんなのがゴロゴロ出てきます^^;)。

その上で、起草委員会が文言を変更した理由とその意図を読むと、「公共の福祉」のままでよいはずで、文言変更には前回記事で触れた第64条2項の政党に関する条文と合わせて、「政治の都合」以外の正当な理由が読みとれないので、9条の変更内容や前文で日本にある伝統的な共同体概念を盛り込んでいることは評価できても、これを今のまま採決にかけるなら賛成できない、すごくもったいない!というところです。

注目すべき要素としては、現行憲法の基本が個人主義の概念であるのに対して草案では基本概念の変更があることと、国民を「被統治民」ではなく「統治実権の担い手」として見るという視点の変更があります。
視点の変更がどこからくるのか、「公益及び公の秩序」はどこから持ってこられたのかをまずちょっと見てみましょう。

人権規定の前提は第11条に掲げられていますので、その内容を対照してみます。
一番把握が簡単な、「第97条を削除しても差し支えない理由」についても、同時に触れます。

改正案草案第3章『国民の権利および義務』第11条
国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
現行憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

現行憲法では「現在及び将来の国民に与へられる」となっています。
では、何によって「与へられる」のか。
そこで97条で由来を「人類の多年に渡る自由獲得の努力の成果」であると明確にし、それを憲法で明らかにしたので「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」ので尊重しなさい、としているわけです。

これは、現行憲法の成立過程において、GHQがどのように指導したかが大きく関わった条文で、要するにGHQ的に「オマエら人権って知ってるか?教えてやんよ!(`・ω・´)」(超訳)ってことですね。
それぞれのGHQ草稿の原文では第9条と第10条が対照となる文章です。
 【参考】 Wikipedia-日本国憲法第11条
       Wikipedia-日本国憲法第97条

↑のWikipediaのリンク(内容の出典は国立国会図書館「日本国憲法の誕生」)にあるように、帝国憲法から現行憲法への改正について、改正要綱で
「日本臣民ハ本章各条ニ掲ケタル場合ノ外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナキ旨ノ規定ヲ設クルコト」
という「指導」があり、GHQ草案原文で

Article IX. The people of Japan are entitled to the enjoyment without interference of all fundamental human rights.
Article X. The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.
===日本語対訳===
第九条 日本国ノ人民ハ何等ノ干渉ヲ受クルコト無ク一切ノ基本的人権ヲ享有スル権利ヲ有ス
第十条 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲ以テ賦与セラルルモノナリ
===対訳ここまで===

とされているものが、憲法条文の構成によって分けられて、GHQ草案原文の第十条が第97条で謳われることになった、ということなんですね。

ちなみに97条にあたる改正要綱は
「此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ、此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪へ現在及将来ノ国民ニ対シ永劫不磨ノモノトシテ賦与セラレタルモノトスルコト
天皇又ハ摂政及国務大臣、両議院ノ議員、裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フコト」

となっています。

後半の天皇又は摂政及び国務大臣・・・以下云々の擁護義務は、現行憲法の第99条へ分けられています。

この97条にあたるGHQ草案は

Article X. The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan result from the age-old struggle of man to be free. They have survived the exacting test for durability in the crucible of time and experience, and are conferred upon this and future generations in sacred trust, to be held for all time inviolate.
===日本語対訳===
第十条 此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試練ニ克ク耐ヘタルモノニシテ永世不可侵トシテ現在及将来ノ人民ニ神聖ナル委託ヲ以テ賦与セラルルモノナリ
===対訳ここまで===

ですから、純粋に憲法の条文構成において分けられたもの。
それを自民党の改正草案が11条でまとめたのは、上で書いたGHQの「指導」から分かる「臣民は時の権力者に虐げられた被統治民であり、自由と民主主義は過去存在しなかった日本」という連合国側の基本認識と決別したものだと言えます。
GHQが「人権ってこういうものですよ、あなたがたの帝国憲法で足りなかったところですよ」と“教える為に”盛り込んだ内容については「もういらんよね(´・ω・`)」(超訳)と。
草案第11条の「侵すことのできない永久の権利である。」という表現に置き換えて「自分達のもの」として宣言しているということですね。

この「連合国側の認識との決別」は、たちあがれ日本の大綱案で、日本の統治形態で合議制が導入された事実を五箇条の御誓文まで遡り、明治大正昭和の3時代を通じた「日本の民主主義の成立過程」を元に考えられていることと共通点として見ることができます。
当然ですよね、自主憲法制定が目的なんですから。
なので、現行憲法第97条の削除は、全く問題にならないと思います。むしろ賛成。

また、何よりも大きいのは国民が主権者であり統治実権の担い手であることが強く意識されている点。
Togetterでの議論でも
「憲法は国家を縛るものなのに、その意味がなくなっている」
という意見がありましたが、公権力の行使に対して人権が上位にきているのは草案でも変わらないです。
問題となっているのは、社会における人権の限界がどこに求められているかなので、見失わないようにしましょう。
ただ、被統治民の人権保護という観点で書かれた現行憲法から、「主権者たる国民自らの意志で人権を保持する」という意味合いの強い表現に変わっているので、そこに違和感を覚える方も多いかも知れません。
第102条で公権力を行使する者に憲法の擁護義務を課し、国民には憲法を尊重しなければならないと責任の一端を担う規範(義務ではない)を置いているところが象徴的です。

で、草案では第11条を基本的な認識とし、司法の独立と施政者の擁護義務など現行憲法と同様に人権に関する「法の支配」を確保していますので、「公益及び公の秩序」は現行憲法と草案の基本概念の違いからくる表現であり、外在制約説へ回帰することを意図したものではないですが、起草委員が権利と義務、権利と責任の関係性をバーターとして捉えたことによる錯誤と言えます。

じゃあその「公益及び公の秩序」はどっから来たのか。

基本的概念の違いとして、現行憲法が「個々人」を見ているのに対し、草案が「各権利を持つ個からなる共同体」を見て定めていることが大きいですね。
「公共の福祉」は個対個の権利衡平の概念ですが、自民党草案では共同体の理念を憲法に盛り込んでいます。
これまで個の権利行使において、他の個との矛盾衝突を考える際、他の個の権利のみが問題であったのに対して、他の個の権利集合体としての公の概念が導入されています。
なので、「公益及び公の秩序」は民法の概念から持ってきているものじゃないかと
これが、権利と責任の関係性の認識に錯誤があるところだと思います。
 【参考】 Wikipedia-公益
       Wikipedia-公共
       Wikipedia-公序良俗

ここから見えるのは、個の権利が「他の個に迷惑をかけない限り」自由に行使して良い、ただし責任は行使した個に帰結する、しかし犯罪などとして法に抵触しない限りその責任を他者が具体的に問うことはできない、という「愚行権」(Wikipedia)に代表される考え方を恣意的に利用した利己主義的な権利意識伸張の抑制です(実際に現在の社会的な問題は大概がこれで、草案作成時の議論もそういう流れになっていた模様)。

要するに、第11条で個の権利をまず謳い、第12条で個の権利を行使する際は、公共及び公の秩序を媒介として“他の個が持つ権利を間接的に侵害するものであってはならない”、ということであって、意図されているのは「国家の都合」ではないんですよね。

この公共及び公の秩序について、「国家が決めることができる」かどうかは、司法の独立が現行から変更なく、違憲審査の最終判断機構と定められているわけだから、現在の「公共の福祉」が判断される仕組みと変わらないわけですよ。

・・・と、ここまで前提になる憲法草案の基本概念に対する自分の理解を書いてみたわけですが、ここから「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」と変更されたことに対する批判となります。
だいぶ長々と書く結果になったので、続きは次の記事で書きますね。
多分、2~3日中にアップできると思います。

ひとつ国民が議論していく上で本当に気をつけなければならないのは、Togetterのコメント群の中にもアジテーションが結構あるということ。
憲法の改正は、現実的な問題としてやらなければならない理由というのが確実にひとつあって、それが安全保障および政府の戒厳の権限についてなんですね。

一部がダメだから全部ダメ、っていうことにはならないので、「人権が剥奪される!」とか「北朝鮮みたいな国に!」とかいうのに耳を貸す必要はなくて、ちゃんと考えるべき有権者がアジに乗せられちゃうと、余計に行政は強制力をもって秩序維持をしなきゃいけない、みたいな思想になるわけです。
「今すぐ全部原発なくせ反原発」とか「ゼロベクレル教徒」が問題の本質を有権者から見えなくしているのと同じ構図になってしまうのは避けたいものですね。

ということで、続きは次回。
すごい自民批判をやることになりそうなヨカン。