娼婦の股ぐらに落とされる情報のためだけに、
香子は娼婦を抱く。
嬌声を上げる女に興味はなく、その体温には吐き気を覚える。
人の温もりに返せるものは、鳥肌しかない。
それでも香子が娼館通いを止めないのは、
情報を保身と観劇のために求めるからだ。


「街を騒がせてるのは、犬と蜂」
「知ってる」
「じゃあ、女王蜂については?」
「この間縁あって聞いた」
「そう、じゃあ狂犬については?」
「殺し屋、動物にたとえるのが好きな組織の所属」
「そう、じゃあ知ってる?狂犬には趣味がないって話」
「知らない」
「狂犬は自由がお好き」
「知らない」
赤い紅を塗りなおし、蠱惑に微笑む女に首を振る。
女は情事を終えた後特有のけだるさを漂わせながら
でもね、と唇に指を当てて笑う。
「あたしたちも、狂犬についてはそれぐらいしか知らない。
何故って、分かる?」
「リドル?」
「リドルってほどのもんでもないわよ。
狂犬には日常が存在しない、殺し・任務が日常。
だから、話せることがない。
それだけ」
香子の問いに否定を返し、娼婦は言葉を吐く。
情報は、彼女達が好き勝手に遊べる玩具のようなもので
弄くりがいがない、きゃあきゃあと言えもしない乾いた話は
少なくとも馴染みの娼婦は、お気に召さないようだった。
彼女はごろりとベッドを転がると
「犬と蜂で言うならね、女王蜂のが、あたしらは好きよ」
「ふぅん」
「綺麗だからね。綺麗なものは、女は好きなの」
「狂犬は」
同性であること、元々は同じ娼婦であること。
同じ殺し屋でも、狂犬よりも弄りがいのある情報を持つこと。
好かれる要素がよほど多いなと思いながら
一応あちらについても尋ねてみると、娼婦はうぅんと唸りを上げる。
「男好み。あとは、女なら破滅主義者」
「随分な言いようだ」
「言われてもね。趣味のない男なんて、あたしはごめんよ。
薬もタバコもやらないって話」
誰に聞いたとは言わない。
口には出されない、明確な規則がある。
「案外、外に出ないインドアな趣味を持ってるかもしれないじゃないか」
「インドア」
その代わり軽口を叩くと、娼婦はぱちくりと目を瞬かせた。
例えば、と促され
「料理とか」
「あはは、気持ち悪い」
「………」
香子は口をもごつかせたが、結局押し黙ったまま女の笑いを聞いた。
気持ち悪い。
…料理が趣味なのは香子なので、なんともいえない気持ちになる。
このまま黙っていると、気が沈みそうで
香子は今聞いた狂犬についての情報に、考えを巡らせる。
僅かばかりの情報だけれど、さて、導き出される狂犬像は。
考えて、それからえらくストイックな男だと思った。
いや、ストイックというにも語弊がある。
そういうには、狂犬という男の生き方は、乾燥しすぎているように
香子には思えた。
任務の間に日常を挟まず、断続的な殺しによって人生を繋ぎ
そして無類の強さを誇り、他を寄せ付けない。
実に物寂しい。
口の中で呟いて、しかしと続ける。
その男が好くのは自由か。
全く面白いことで。
全く面白くないことで。
狂犬という殺し屋は、命令やセオリーを無視すると伝え聞く。
そこから想像するに、自由を好いているというのは
真実の情報なのだろうが。
「…リドルでも出そうか」
「え?」
娼婦が、またぱちりと目を瞬かせたが、無視して香子は続ける。
「太陽がいて、北風がいる。
太陽は日に十二時間地上を照らす仕事があり、
雲が太陽を隠しているとき以外は、必ずこれを行わなければならない。
太陽は、これについて何も思っておらず、自分を自由だと思っている。
一方北風には仕事がなく、必ずやらなければならないこともない。
気ままにどこぞを吹いて、木枯らしを起こしても起こさなくても良いことになっている。
北風は、自由な自分を好いていて、勿論自分のことを自由だと思っている。
さて、果たして自由なのは、どちらか」
突然に謎かけを始めた香子に、娼婦は目を白黒とさせていたが
香子が謎かけを出し終えて、壁に頭を持たせかけたのに嘆息して
唇を指でなぞった。
「そうね」
一度言葉を切って、娼婦は首をかしげる。
「そうね、でもやっぱり、北風じゃないの?」
「なぜ?」
「だって仕事がないんでしょう?」
「だが、自由を好いている」
一拍。二拍。
娼婦が首を反対に傾げたので、香子は補足をすべく口を開いた。
「好いているということは、執着しているということだよ。
執着があるということは、自由に縛られているということ。
そうした場合、仕事で縛られている太陽と、
自分の執着に縛られている北風は同じ数だけ物事に縛られており
よって、太陽と北風は同じだけ自由でないということになる。
ただし、自分の執着を北風が認識した時点で、
自由に執着している自分というのは本当に、真実自由かと
北風の自由の定義が崩壊するため、北風はやや太陽よりも不利である。と。
ようするに現時点では引き分けだな」
「………一つ言っていいかしら」
「理屈くさい、というのは抜きで」
「ごめんなさい、やっぱり言うことは無いわ」
「あぁ、そう」
気のない返事を返すと、娼婦は呆れた表情を浮かべる。
大方考えていることは、それを考えて楽しい?だろうが。
放っておいてくれ楽しいんだ。
言葉に出さずに態度で示して、それから香子は狂犬へと思考を戻す。
さて、リドルのように、狂犬という男が自由を好き自由へと執着を見せるなら
その男は自由か否か。
自由を求めるあまり、自由に囚われてはいないか。
それに気がつくか気がつかないか。
それ以前に、男が求める自由とは、一体いかなる定義のものなのか。
気になるな、と呟いて、香子は珍しく少年のような笑みを漏らした。





元娼婦。
元居た娼館で、娼婦達へ花や毛皮や宝石のプレゼントを贈る。
盛り場での油断を狙って近づき、任務を遂行する。
「いい男とは一度寝てから殺すの」
「いい男は殺すのがもったいないでしょ?
でも一度寝た男は退屈だから…それなら殺せるじゃない」
女王蜂の表面的な情報を聞いた香子の感想は
「あぁ、優しいんだな、女王蜂ってのは」だった。

「珍しいな、大抵開口一番に、ビッチって言うんだぜ。
寝てからと、酔った十八番で言うらしいからな」
「大抵ってのは、大体だろ。大体ってのは、十割じゃない」
情報をよこした情報屋に、ウイスキーの入ったグラスを
かかげながら返すと、はいはいとでも言いたげに両手をあげられる。
「珍しいって、言っただろ。それは俺が十割という意味で
言っていないという証明にはならないかね。
少数派ってことだ」
「なるほど」
「あんたは妙に理屈くさくて嫌になるな」
「性分だよ」
バーの片隅、薄暗い席に陣取りながら男を向かいに喋る。
その非生産性に、香子も情報屋も二人してくっと声を漏らして笑った。
「いやでもしかしな」
かかげついでにウイスキーをあおって、それから香子は口を開く。
「ビッチって言うのもそりゃあ真実なんだろうが」
「うん?」
「わざわざ花や毛皮や宝石を贈るわけだ、その女王蜂は」
「あぁ。それが?」
「だから優しいって言ってる」
氷のないトワイス・アップ。
カラリとも音のしないグラスを回しながら言った台詞は
しかし理解されなかったらしく、情報屋はわずかに眉間に皺をよせただけだった。
いやいや、だから。
美しい女の股の間に落とされた情報が欲しいだけならば
金をくれてやれば良いだけだ。
それをわざわざ手間隙かけて、美しい花、豪華な毛皮、煌びやかな宝石に変えるのは
女受けだけじゃなく、そこに娼婦達が夢を見ることを知っているからに違いない。
だから、優しいと言った。
けれど、理解されないのならば、わざわざ説明する気もない。
大体が、香子が勝手に思ったことに過ぎない。
…会うことも無いのだから、香子にとっての女王蜂はそれで良い。
香子がまた一口ウイスキーに口をつけると、情報屋はそれで。と口を開く。
「それで、あんたどうする気なんだ?」
「どうって?」
「しらばっくれるなよ」
机の下をちらりと見ると、情報屋の右手が僅かにポケットにかかっているのが見えた。
…ウイスキーをもう一口。
それから、香子はやれやれと首を振って、情報屋の懸念を晴らしてやる。
「むちゃくちゃ言うなよ、あんた。
俺はいつもと変わりない。変わらないから集めてる。
そらすのも、上手くやらないと首が飛ぶんだ。分かるだろ?」
人差し指を突きつけて言ってやると、はぁんと向こうさまが気の抜けた相槌を打った。
「なるほどね」
「そうだよ」
「…お犬様も楽じゃないと」
警官である香子が、危険ごとに巻き込まれないためにいつも
警察が『上手く』立ち回らないよう情報を殺しているのを知っている
男は皮肉げな様子でこめかみをかく。
それに対して、猫に生まれたかったよ俺はと、軽口を返しながらも
香子は女王蜂を、思う。
客を殺して、愛の証に殺し屋への道を選んだ女。
その心はどれほどまでに、美しい火を燃やすのか。
他我も自我も信じられぬのに、心があるように一際見えるものを見て
心は、記憶媒体でない意識はあるのだと、安堵を得る自分のためにとは言わない。
そんなものは、絶対に言わない。
だから見せてくれ。
お前はお前のために走ってくれれば良い。
その様に俺は勝手に希望を得るから。
最後に一気に呷り、空になったグラスを机の上に置くと
香子は懐から財布を出して、幾ばくかの金を伝票と一緒に情報屋へと投げ渡した。




家に帰ると、床で女が寝転んでいた。
いや、寝ているのか。
胸を規則的に上下させながら、女は固く目を瞑っている。
いつものようにベッドを使っていないのは、気遣いなのか
それとも本人が嫌だったのか。
どちらでも良いかと、結論を放り出し、香子は女の横にしゃがみこんだ。
女の長い髪が汗で首筋に張り付いているのが気になり、指で除ける。
汗で湿った感触と、髪の手触りが指に残った。
それに顔をしかめながら、もう一房、張り付いた髪を除ける最中に
ふと、思いつく。
危害を加えることも出来るし、殺すことも出来る。
女が言っていたルールを思い出しながら、
無防備に横たわる女の首に手をかける。
指先は、いともたやすく女の首をへこませ、圧迫した。
こほりと、女が咳のような息を吐いた。
このまま締め続ければ、簡単に舌を突き出した女の醜い死体が出来上がるだろう。
やってしまおうか。
ぼんやりとした思考で、意味もなく人を殺そうか
カレーとハヤシライスを迷うような気軽さの思考で思うと
香子は女の首を持つ手に力を込めた。




「………帰ろうかな、と思っていたところです」
「…あぁ」
まぶたを開けると、困った表情の女の顔があった。
背中の裏の感触が固い。
…どうやら寝ていたのは自分の方らしい。
寝起きの、金魚ばちの中のような、揺らぐ視界を閉じて
香子は女に問う。
「…どれぐらい寝ていたか分かるか?」
「さぁ。来たときには寝ていました」
「いつ来た」
「先ほど」
簡潔に吐かれる答えに、香子はそうかと、頷きをかえす。
「…そういえば」
「はい」
「お前を殺す夢を見た」
ふと思いついて口が滑る。
物騒な言葉に、女は最初ぱちりと目を瞬かせたが、次に、はぁ、と気のない声を漏らした。
「えぇと、それで」
「それだけ。首を絞めている途中で目が覚めた」
「……はぁ…殺したいんですか」
「いいや、特に」
まだ寝てますか、と疑問系でも断定系でもない言い方で、女が言葉を吐く。
香子は返答を返さず、ただ黙って女を手招いた。
女は一瞬眉を動かしたが、それがどういう感情からかは、香子には分からない。
ただ、女は大人しく香子のほうへと近寄り、静かに首をさらけ出した。
女の長い髪を分け、手を差し込み、香子は女の首へ両手を添える。
力さえ込めれば、いつでも首が絞められる体勢を作った後
香子はわずかにため息を吐いた。
「…体温が気持ち悪いな」
「えぇ、そうでしょうとも」
「お前は温すぎる」
「夏じゃなくて良かったですね」
全くだ。
子供のように高い女の体温は、今の時期でもじっとりと生暑く、不愉快だった。
しかし、例えばこれが支給品の拳銃を手にしていて、
その拳銃の中に弾はこもっていて、いつでも撃てる状態だったとして
自分は引き金を引いただろうか。
香子は一瞬だけ、それを考えたが無意味だと、すぐに止める。
撃つわけがない。
他の人間はどうだというのは関係なく、香子が命を奪うには
自分が納得するに足る理由が要る。
どれほどに下らなくても良い。
例えば、近所の犬を蹴ったとか、そういう理由でよいのだ。
香子さえ納得できれば。
女の皮膚の感触を誤魔化すように、指と指をこすり合わせていると
女が物言いたげな視線で見ているのに気がつく。
首を傾げて見せると、彼女もまた、首を傾げた後
「まぁ、そちらもニアであるなら、確実に頭固いんだから、諦めたらいかがですか」
「…………お前に言われると腹立たしいな」
「えぇ、はい。そうでしょうね」
お前には、殺人狂の素質など、ありはしないよと否定して
女は大あくびをする。
それに、最初からなる気などないと、言い訳のように呟いて
香子もまたあくびを漏らすのだった。
家に帰ると、女がベッドで本を読んでいる。
女は香子が帰ってきたのに気がつくと、のっそりと立ち上がって
部屋の外へと出て行った。

「いつ帰ってくるか?そんなの分かるわけ無いじゃないですか。
エスパーじゃないんだから」
繋がってるわけじゃないんですよ、と女が多少面倒さを交えた声で言う。
自分が家に帰って来てから来ないのか。という質問に対しての回答がこれだ。
「意外と不便だな」
「えぇ、意外と。不規則だからなと?」
「まぁ、それなりに」
変則的な時間で動く自分に合わせるのは、多少面倒だろうと、思わなくもない。
入れたコーヒーに口をつけながら頷くと、別にそれは構いませんけどと
女が鼻の前で手を振る。
「こちらもこちらの都合できていますし。えぇ、特に」
「ふぅん」
「あなたが引きこもりなら、そりゃあ楽だったんでしょうが」
「引きこもって生活に支障が無いならそうしている」
「えぇ、はい。そうでしょうね」
あっさりと女は頷く。
その肯定は、歓迎すべきだろうか。
何ともつかない感情を抱きつつ、香子の頭を、ある考えが過ぎる。
………女の顔を見る。
これを言うと、女はなんと言うだろうか。
過ぎっただけで、どうするつもりもない考えを
繰り返し思考して、香子は好奇心から、女に話しかける。
「そういえば、お前は」
コーヒーカップをテーブルに置く。
カタンと、音が小さくたった。
「お前は、俺が狂犬か、女王蜂か、どちらかにつきたいといえばどうするんだ」
「どう、といわれても」
困った顔を女はした。
何を言おうか決めかねているような、いや、どう言おうか決めかねている顔をして、香子を見る。
視線がかち合った。
なんという答えが返ってくるか。
肯定か、否定か。
香子の趣味は人間観察だ。
舞台観劇なんていう趣味も持ち合わせてはいるが、
それもまた、人間観察の一角であって、まぁ、ようするに香子は人間を見るのが好きだ。
見る、というよりかは、思考を知るのが好きだ。
そうして、それは目の前の女だけ、例外なんてことは無い。
どう答えるのか。
アリの巣の前に、バケツいっぱいの水を持って立つ少年のような気持ちで
香子が女を見ていると、女は香子を見て、机を一度指先で叩く。
「あなたが、誰かについたらの、ifを答えろと」
「そう」
「ifは所詮if、で逃げるのは」
「断る」
「断られましたか。私の自由なのに」
今度は二度、指先で机を叩いて、女は、えぇとと、声を漏らした。
「………まぁ、そもそもの可能性を言えば、あなたはどこにだって属せる。
警察に属しているふりをしているけれども、真実そこに属すことも。
ネストに属すことも、他の組織に属すことも。
勿論あなたが言うように、狂犬か、女王蜂か。
どちらかの勢力に属すことも出来るでしょう。可能性だけならば」
「可能性だけならば」
「えぇ、可能性だけなら」
しないでしょう。
しないだろうな。
えぇ。
あぁ。
視線だけで会話をして、そして香子は溜息をつく。
まったく、面白くもない。
思考回路の相似した人間相手への揺さ振りもからかいも、難しいものだ。
そういうときにこそ、人間がでるというのに。
テーブルの上に片手を置くと、女は苦笑しながらコーヒーに口をつけた。
「なんだ」
「いえね、うん。別に、完全に等しいというわけでもないんですよ、と思って」
「あぁ、それは分かってる。確か、同じなら話をする意味もないと」
「えぇ、そうでしょう?」
「あぁ、そうだな」
全く同じであるならば、別の個体が存在している意味が無い。
長い髪、女の体、どうでもよさそうな、表情。
女を上から下まで観察していると、ふいに女がこちらに手を伸ばす。
女の顔を見る。
どうでもよさそうな表情をしていた。
その表情に小さく口を歪めて、香子は伸ばされた手をとった。
ぬくい。
子供のような体温に、一瞬顔をしかめる。
女の体温は、随分と高くて、普段がトカゲのような、低い体温の香子とは大分違う。
その違いに、あぁ、やはり違うのかと当たり前のことを当たり前に思って
香子は「どうぞよろしく」と呟いた。
「えぇ、こちらこそ」
いらえは返ったが、どこかお互い独り言のようで、香子と女は視線を交わして
それからゆっくりと手を離して笑った。

「さて、では観劇を始めましょう」
「始まってたんじゃないのか?」
「改めて、ですよ。無粋です」
「あぁ、これはこれは」
「はい。まったく」
「では、情報を」
「はい、私」
「あぁ、俺」


「どうぞよろしく」





「こんにちわ。こんばんわ、おはようございます」
四度目の訪問は、朝…と、昼の間だった。
休日の昼近い時間に、常どおり無表情で姿を現した女に
香子は挨拶を返す。
欠伸をしていると、女は歩み寄ってきて
香子のほうへと手に持っていたビニール袋を押し付けた。
中を確認すると、ホットケーキミックス・牛乳・バター・蜂蜜。
「………本当に持ってきたのか」
「先に寄越したのはあなたのほうです」
義理堅いと皮肉った香子に返してきた女の答えは、実にもっともだった。



一枚一枚薄いホットケーキを焼くよりも、一気に焼いてしまった方が
見た目も良いし手間要らずだと思うんですよね。
そう言って女は香子の家のフライパンで、阿呆のようにどでかいホットケーキを作った。
茶碗三杯分のホットケーキミックスを使ったそれは
ホットケーキというよりかは、餡のないどら焼きのお化けのようだ。
…と、言いつつも、自身も良くやる事なのでここも同じなのかと
妙な感動を香子は覚える。
さすがは、自身。
大皿に盛られたでかいホットケーキを前に、対面で座りながら
女はホットケーキの上にバターを落とした。
こげ茶色の上に、とろりと黄金色がとろける。
その横に苺・マーマレード・甘夏ジャムを落とし
ナイフを出すのが面倒だったので手でちぎると、
女もそれに習ってか、手でお化けホットケーキをちぎり取った。
「コーヒー?紅茶?」
「コーヒー」
ビニール袋の中から、パックジュースを取り出し女が問いかけてくる。
それに手を出しながら答えると、手の上にコーヒーが置かれた。
「ところで」
パックジュースにストローを突き刺す。
「はい」
「ルールて何」
前の時に、面倒くさそうに女が遮った質問を再度問いかける。
女は、あぁとやはり面倒そうに頷いて、パックジュースにストローを突き刺した。
「ルールはルールです。規則ですよ」
べこりと、パックをへこませながら答える女に、香子もまたコーヒーを啜りながら続ける。
「どことどこの」
「私とあなたの間の、です」
取ったホットケーキを手でちぎりながら、女が言った。
とろけたバターをちぎり取った破片に吸わせながら
女は空いたほうの手で、香子と自分との間を交互に指差し
「いくらか、私・私たちの間にはルールがあります。
一つは、この間言ったように、私はこの家の中にしか存在できない」
「他は?」
「私はこの家の中ならば、どこでも歩き回ることが出来る。
この家にあるものならば、自由に触ることが出来るし
自由に使用することが出来る」
その言葉に、くるりと部屋の中を見回して、それから何も困るものは無いと香子は思った。
家の中にあるのは生活に必要最低限なものだけで、
必要ないものといえばパソコンと本ぐらいだ。
見られて困るものなど、何一つとしてない。
それはそれで寂しい話ではあるがと、自分事を他人事のように考えていると、
ふと女が口をつぐんだ。
しかし、これで終わりかと香子が思うよりも前に、私は、と口を開いた。
「私はこちらの情報をいくつか持っているが
その情報を全てこちらの私・あなたに渡さなければならない
…と、いうことはない」
一拍置いて、否定形。
その意味を考えて、それはずるいなと香子は思った。
「任意で制限をかけることが出来る?」
確認の意を込めて、質問すると、女は静かに肯定する。
「そう。例えば私はネストのアジトを知っているけれど
それをあなたには話さない。よろしい?」
問いかけられて、香子は言葉に詰まった。
知れる範囲、というものがある。
身の丈というものも。
香子は女の言った言葉の意味を咀嚼して、それから一度目を瞑った。
それは、確かに『教えられない』情報だ。
教えられたくもない。
香子は女の言葉に首を縦に振る代わりに、再度、問いかけを投げる。
「持っていることを宣言して、というか
そも制限をかけられることを喋って良いのか?」
黙っていれば、そんなものを知っているなど、露も思いはしないのに。
自分を可愛く思うのならば、そのような情報は、迂闊に漏らすべきではない。
阿呆な理由ならば、それなりに考えると、そう思いながら女を見つめると
女は一瞬嫌そうに顔を歪め、それから天井へと視線を向けた。
「フェアに行きましょう、フェアに」
「フェア」
「えぇ、はい」
質問に答えながら、女は眉間に皺を寄せる。
「例えば、俺がお前に身体的危害を加えて、聞き出そうとする可能性は考慮しない?
それともルールで出来ない?」
それならば、話は分かるのだが。
絶対的安全圏にいるものの余裕だとか、そういう。
しかし香子の考えを切り捨てるように、女は即座に首を横に振る。
「いいえ。私はあなたを殺しても良いし、あなたも私を殺して良い。
そういうルールです」
「ふぅん」
女の回答に、香子は気のない相槌を打って、ホットケーキを口に運ぶ。
バターのたっぷりと塗られたふくよかな味が口に広がった。
ふぅん、なるほど。
殺してもいいし、殺されてもいい。
お互いがお互いに危害を加えられることを、素直に喋るとは全く。
「実にフェアだ」
「はい。私はそれを望みます」
「ふぅん」
女の言葉に、やはり香子は気のない相槌を打つ。
そんなフェアさを示して、一体なにがしたいというのか。
「何かご不満が?」
「別に」
何がしたいのか。
何をしたいのか。
それともお前は愚かなのか。
問いかける代わりに、何もないという言葉で切り捨てると
今度は女がふぅんという気のない返事を返した。
「気に入らないなら、言えばいいのにと思ってる?」
「肯定されることをお望みですか」
「あぁ、大分な」
言うと、女はうんまぁと、口の中で曖昧な言葉を転がしたようだった。
そのまま少し待つと、
「こう、なんていうか。圧倒的に情報面において
優位に立っているのが気に食わないというか」
「うん?」
手を広げながら言う女に、首を傾げて見せると
女は嫌そうに、非常に嫌そうに顔をしかめ
今度は顔の前で手を組み合わせ、そこに額を押し付けながら
苦いものを吐き出す顔で、口を動かす。
「少なくとも、観客席で隣り合って座る人間相手に
そこまで不誠実であるのは、後々の関係に響いてくるというか」
「うん」
「まぁ、要するにあなたを通してこの舞台を見せてもらうって言うのに
安全地帯に居る私が安全地帯に居るまま、
あなたに隠し事をするだとか、そういう諸々を黙ったまま
続けるのが気に食わないって、そういう話」
「…ようするにお前は新宿で生きていけないって話」
少し沈黙してから、人差し指で女を指し言うと
女は顔を上げて、がっくりと項垂れた。
「そういう話になりますか、やはり」
「なるだろう、それは」
否定のしようもない。
ここで生きたいのならば、そんな誠実さは
くその中に捨ててしまえと言ってやろうかと思ったが
女はここの住人ではない。
あくまでもイレギュラーな来訪者だ。
まぁまぁ。
大目に見ようじゃあないか、俺。
情報提供者が、良心の呵責に(愚かだ)耐えかねるような(なんて甘い)良い人間ならば(馬鹿すぎる)
それはそれで言うことは無い。
ぎしりと、音を鳴らして椅子に腰掛けなおすと
自らの手に額を押し付けていた女が顔を上げた。
「でも」
「うん?」
「でも別に、万人に対して、こうというわけでもないんですよ」
「もしもそんな聖人なら、お前はここには居ないだろう」
言い訳じみた物言いをする女に、肩をすくめて答える。
もしもそうだというのならば、こんな世界、こんなところ、足を踏み入れたくもあるまい。
汚濁の中の、一番汚いところを寄せ集めたような場所に
わざわざ観劇だけをしに来る、完全な良い人がいるものか。
それに対して、女も肯定をする。
「ですね、えぇ勿論。ただ、こちらで接触できる唯一ぐらいには
誠実さを見せても良いでしょう」
「ふぅん」
「良い関係とは言わなくても、悪い関係にはしたくないんですよ。
例えば笑いながら隣り合い、そのくせ後ろ手でナイフを持つような」
したい?と首を傾げられて、即座に首を振る。
そんなに面倒ならば、ナビゲーターなど不要だ。
「それぐらいなら俺だけで良い」
「はい、そういうことです。
黙っていて、後でばれたときを思うと、ここで吐いてしまった方が
いいように私には思えます。
なぜならば、私とあなたは同じところが多すぎて
切欠があったら、すぐばれてしまう可能性が非常に高い。
そういうことです。えぇ、はい。
必要なのに、良い関係を築く努力をしないのは
ただの愚か者だと私は考えます」
「ふぅん、なるほど。ただ、その努力に俺が報いない可能性は?」
「メリットデメリットを切り分けて、私から、ごく安全に得られる情報と
自分で調べたときの危険性を天秤にかけたときのシミュレートをして
あなたそれを選ぶというのなら」
実に可愛くない回答に、香子は機嫌良く目を細めた。
ふとした瞬間に、これは自分だと感じることがあるけれど
…さすが、≒。
「…というか結局のところ、お前は関係悪化における
厄介ごとが嫌なだけなんじゃあないのか」
「まぁ、積極的に否定はしませんが。無論肯定も」
「馬鹿じゃあないんだな?」
『良い人』は嫌いだ。
虫唾が走る。
『優しい人』も嫌いだ。
吐き気がする。
そもそも人間自体が好きじゃない。嫌いだ、大嫌いだ。
「馬鹿のほうが、なにかと都合はいいと思いますよ」
バターのたっぷり染みた、ホットケーキを口に運びながら、女。
「愚かなふりをするのは?」
コーヒーを置きながら男。
「大好きです」
ホットケーキを飲み込んで、女。
香子も冷めないうちに、ホットケーキを口の中に放り込んだ。
ふぅん、なるほど。別にどうということでもないが。
性格が良いような、良い性格のような。
どうにも判別がつきにくいが、とりあえず、面倒くさい人間なのは良く分かった。
今更のような気もするが。
自身を省みて、それから目を逸らすと、とりあえず香子は話を引き戻すべく
女に向かって続きを促す。
「それで、ルールは他には?」
「いいえ、これ以外は特に」
その答えに、香子はホットケーキを更に口の中に放り込んで
それから少し考えて、なぁ、と名前を知らない女に呼びかける。
「なぁ、俺。俺達みたいなのは、他にも?」
「えぇ、はい。正確な数は把握できませんが」
「同じようなルール?」
「さぁ。接触したことがありませんし、接触する気もないので。
私たちの間に介在するルールはないかもしれないし、あるかもしれない。
分かりません。その辺りは」
目のまえの女は、香子の問に否定で答えた。
だが、それはどうにも嘘のように、香子には思えた。
いや、そうとしか思えない。
「嘘?」
だから素直に口に出すと、女は一度視線を逸らして
「内緒です」
胸の前で×を作る。
「ルール?」
再度の問いかけ。
「ごく個人的な」
女は肯定する。
それで十分だった。
女はごく誠実に、こちらに対応している。
良い関係。
心の中で繰り返して、それからもう少し考えて、また女に喋りかける。
「ところで、もう一つ。それらは舞台に上がる人間?」
「さぁ、それは答えかねます」
「なるほど。なら、良い」
「あぁ、良いんですか」
「俺が関心を持つような人間なら、嫌でもそのうち耳に入る」
「なるほど」
返ってきた肯定に、あっさりと話を打ち切ると
女はさして驚いた様子もなく、それを受け入れる。
香子はそうだともと、女に返して、それからバターを一欠け足す。
バターがたっぷりの方が、うまい。
カットケーキぐらいに分割したホットケーキを五口で食べて
それから香子は女を見た。
ひたすらに、女もホットケーキを食べている。
食べ終わってからにしようかどうしようか。
迷ったが、会話をしながらでも構うまい。
「ところで、情報はくれないのか?」
役目を果たせと強請ると、女は口の中の物を飲み込んでから
それからゆっくりと微笑む。
「えぇ、はい。どこからどれを話しましょうか」
「どこでも、どれでも。お前の好きなように」
それに、香子も笑みで答えると、女は迷った表情をしながら口を開き
「じゃあ、まず―」




ネクタイに指をかけ、外してベッドに放り投げたところで
ふと背後に気配を感じた。
警戒しなくて良いと、本能が囁く。
あぁ、来たのか。
確信を持ちながら振り返ると、そこにはやはり、女が一人立っていた。
「こん、ばんわ」
「予定では昼だったか?」
「えぇ、まぁ、はい」
窓の外の暗さを見て、あからさまに戸惑った顔をした女は
香子の格好を見て首をかしげると、一つ頷いて踵をかえす。
「おい」
「リビング」
「あぁ」
短いやり取りを交わして、香子が着替えをしようとしていることに
気を使ったらしい女は、まだ開ききってもいない扉にぶち当たりながら出て行った。


リビングに座って大人しく待っていた女の前に座って、
香子は窓の外を眺める。
半月の出ている夜空は、星の瞬きも見えない。
「ところで、外が暗くて驚いていたが、時間の経過も違うのか」
「いえ、寝て起きてきたら暗かったので、驚いただけです」
「あぁ、そう」
「はい」
女の様子を伺うと、彼女は、無表情に窓の外を見ていた。
空が暗いと、ネオンの瞬きを見ながら言う女に話しかけようとして、ふと気がつく。
そういえば、名前も聞いていなかった。
三度目の邂逅まで気がつかないのだから、よほどふぬけているのか。
警戒する必要が無いからといって。
舌打ちを抑えながら、名前も知らないから仕方なく、おいと呼びかける。
「思ったんだが」
「えぇ、はい」
「名前を知らないのは不便じゃないだろうか」
「名前」
「聞いてないだろう」
事実を突きつけると、女は一度口を開きかけてから
また夜空に視線を移す。
「私はここの人間じゃないですので」
そして、もう一度口を開いた末に出てきたのは
断りの返事で、香子はひそかに鼻白む。
「何かしら影響が出ると。バタフライ効果?」
「えぇ、はい。まぁ、そのようなものです」
「確実に?」
「警戒してるだけ」
「ふぅん」
嘘か本当か分からないならば、ここまで鼻白むこともなかっただろうに。
香子と女は近似である。
近似であるから、女の言葉が嘘か本当か、香子には分かる。
彼女は、本心からそう思っている。
大方、自分の名を名乗れば、こちらで存在が確立されるような気がして嫌なのだろうが。
それを証明するように、女は香子の顔を一度見てから
「呼びたかったら、勝手につけたらいいです」
「…そもそも何故ですますがつく」
「年上に見える、慣れてない、親しくもない」
「なるほど」
指折りながら言われて、香子はおとなしく頷いた。
なるほど。まったくそれは正しい。
おざなりな尊重のされ方は、一欠けらも嬉しくはないが。
いや、そんなことよりも女の名前だ。
女の本当の名は、女は頑として教えまい。
ならば、つけるしかないのか、ないのだろう。
名づけるために、もうなんだか、女が名称のようになってしまっている女を見ながら
「ジェーン・ドゥ?」
香子が良いかと問うと、女が僅かに眉をしかめた。
「そんな、横文字の名前が似合う顔でもないです」
帰ってきたのは明確な拒否だ。
確かに、不向きな顔をしてはいるが、そんなに即答しなくても。
悩みながら顎に手を当てる。
ジョンドゥ?ジョンスミス?
横文字が駄目ならこれらも駄目で、だとすると。
「だからといって、権兵衛を薦めているわけでも」
ないですからねと。
最終的に到りそうになった結論を先回りして却下されて、
眉が少しハの字型に下がる。
「…意味は同じだ」
「印象の差ですよ。印象の」
口を尖らせながら女は言ったが、わがままだろうと呟くと
いくらか考えるような表情を見せた。
「………あの、これ、それで良いんですよ」
「不便なんだが」
「脳内人格とでも思えばいいんです。
どうせこの部屋の中だけの存在です」
「ふぅん」
「ルールですよ、ルール」
言われたことに、興味がわいて引き出そうと口を開きかけたところで
面倒そうな顔をして女が遮った。
大体のところ無表情な女には珍しい、はっきりとした表情で。
よほど説明が面倒くさいに違いないと、香子は思った。
…しかし、説明が面倒とはまた…。
女の目的は、香子に安全に観劇をさせることだ。
香子も安全に観劇がしたい。
目的は合致している。
しかし、そのくせ女は説明を面倒がっている。
これが指す結論は。
「…一つ思うんだが」
「えぇ、どうぞ」
「お前は、ナビゲーターには向いてないんじゃないのか」
女を指差しきっぱりと言うと、女はさして気にした様子もなく
「あなたが自分で自分を、ナビゲーターに向いていると思うのなら」
返された言葉に、香子はしばし考えて、それから緩く首を横に振った。
「あぁ、無理だな」
「えぇ、そういうことです」
「ババを引いたのか、俺は」
「さぁ。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。
人間万事塞翁が馬ですよ」
全く思ってない顔で言う女に、思わず嘆息してしまう。
説明嫌いの自分とニアイコールのナビゲーターが
説明好きという確立は、そりゃあ低いに決まってる。
決まっているが。
そんな、ナビゲーターは、果たして役に立つ…のか?
考えかけて、香子は思考を停止させた。
あぁ、止めよう。
疲れる結論しか出てこないことは分かっている。
分かっていることをわざわざ思考するのは、非生産的だ。
「…非生産的なことは止めて、夕飯でも作るか…」
「じゃあ私はそろそろお暇しましょう」
「それじゃあ、また今度」
「えぇ、またいつか」
手を振って別れようとする女の姿に、ふと思い出して香子はあぁ待てと声をかけた。
振り返る女に、冷蔵庫から甘夏のジャムを取り出して、女に持たせる。
女は初めにきょとんとした表情をして、それからあっという間に
犬を後ろから不意打ちでつついたときのような顔に変わってこちらを見る。
女が、ふと何かを言おうと思ったのか
口を開きかけたその瞬間、女の姿が視界から、いや世界から消えた。
「幽霊みたいな」
ポツリと呟いて、それから香子はあぁいや、と思いなおす。
脳内人格ということは、幻覚の方が正しいのか。
それはそれで。それなりに。
いつ帰るのか、自分でも制御出来てないのか?と疑問に思いながら
香子は女の居たところを見て、それから夕食作りを始めた。





砂糖を入れれば入れるほど、保存期間は長くなるが
砂糖を入れれば入れるほど、好みじゃなくなるのはどうしたものか。
片手鍋でイチゴを煮詰めながら香子は考える。
バニラフレーバーのドライシガーなど好んで吸う位だから
香子は甘いものを好む。
が、甘すぎるものは好まない。控えめが良い、控えめが。
それからいくと、保存に適したぐらいの甘さというのは
香子の好みからは外れるので、これだけ悩んでいるわけだが。
さて。砂糖を追加するべきかしないべきか。
決断しかけたそのとき、ふと、真横にいきなり人の気配が増える。
「やぁ、こんにちわ・私」
「やぁ、こんにちわ・俺」
台所の脚立を椅子代わりに腰掛けた、会うのは二回目の女は、
片手鍋の中身を見て、それからこちらに顔を向けた。
「ジャムですか」
「ジャムですね」
「イチゴと、瓶詰めはマーマレード?」
「定番だが、好きなんだ」
「私は甘夏も好きです」
リクエストか、それは。
女の顔を横目で見るが、どうにもつかみ所のない表情をしている。
しかし、所詮近似だ。
欲しいか欲しくないのかぐらいすぐ分かる。
…うちの家に甘夏なんぞ、無いのに。
「欲しいのか?」
仕方がないので聞いてみると、女はちらりとこちらを向いて
「作ってくれるなら」
「…欲しいなら。今度」
「お礼にホットケーキミックスと、卵と牛乳とバターと蜂蜜を持ってきましょう」
「作ってこいよ」
「暖めなおすより焼きたての方が美味しいです」
ため息混じりに女の顔を見ると、さすがにそれは私が作りますよと平然とした顔で言われる。
「そういう問題じゃない」
片手鍋の中を覗き込みながら女。
「そうは言われても、お礼の名を借りたごりおしですので」
片手鍋の中をかき回しながら香子。
「………と、言いたいわけですね」
「そちらも」
お互いの心の中を代弁する、趣味の悪い遊びに興じていると
ふと部屋の外からくぐもった悲鳴が聞こえた。
切れ切れに、助けてという声が響く。
珍しいことじゃない。
ここは東との狭間で、規律正しい秩序の切れ目でもある。
その切れ目に迷い込んだ人間が、暗闇の中に食われるのは、実にありがちな話だ。
さぁ、食われたのはどこにか。
人体売買か、実験道具か、それとも趣味の悪いビデオの材料か。
考えながら、なおも煮詰め続けると、とろりと、苺の艶が増す。
しかし、人さらいと小さな声がわめいているのは
どうやら香子の家の玄関先らしく、乱暴に怒鳴る男の声が
耳障りに室内に響いてくる。
現職警官の家の前で、なんとも豪胆なことだと香子は思うが
なんとかする気が全くないのだから、これはこれで良いのかもしれない。
他所でやれば、玄関がいきなり開いて、人攫いも攫われる方も
うるせぇという怒号と共に蜂の巣になる可能性もある。
良い土地だよなぁと、知らぬ存ぜぬを決め込んでいると
最後に、どんっと玄関を叩く音がして
…それから一切ぷっつりと音は消え去った。
「あぁ、平和だな」
「えぇ全く」
女は多少皮肉った言い方で同意をしたが、香子のやり方に口を挟む気はないようだった。
彼女は彼女なりに、この世界を尊重している。しようとしている。
そのやり方が自分そっくりで、香子は一卵性の双子のようなものだと思った。
実のところ女の扱いを定めかねていた香子は、答えを見つけた気がして
内心ほっと胸をなでおろす。
答えの無いものに、何かを当てはめて得る安心は
見せ掛けのものに過ぎないが、それで安心できるのならばそれでよいと
香子は思っている。あぁ、そう思っている。
観劇がその最たるものだ。
他我も自我も信じられぬのに、心があるように一際見えるものを見て
安心を得ているに過ぎない。
欺瞞だ。
思いながら、香子は小さく息を吐き、食器棚から小皿を取り出した。
やめよう。
答えの出ないものは、ごまかすに限る。
香子は小皿に鍋の中身を少しすくい入れてから、一口含んだ。
「ジャムの味がする」
呟くと、女がもの言いたげな顔をしてこちらを見る。
「何」
「いいえ何も」
首を振る女の複雑な表情に答えを見て、香子は双子みたいなもんだよと呟いた。





ぼんやりと、意識が浮上する。
「まだ上がらないのか」
声をかけられて、顔を上げた。
目の前に立っていた同僚の男を見上げて、香子はいや、と彼に答える。
「いや、もう上がるよ」
「ふぅん。お疲れさん」
「あぁ、お疲れ」
挨拶を返すと、こちらに背を向けて同僚は去ってゆく。
なんとなく、その背を見送っていると、彼は自分のデスクにたどり着くその前に
別の同僚にちょっかいをかけ始めた。
よう、まだ帰らないのか。という、先ほど自分も言われた挨拶から始まり
いいや、もう少しという別の同僚の返しから
彼らはつらつらと世間話を机を挟んで始める。
あぁ。
うん?
そういえば、一課のあれが発砲されたんだと。
怪我は?
かすり傷。
そりゃあ良かった。
今月はまだ殉職出てないよな。
あぁ、揺り返しがきそうで怖いよ。
不吉なことを言うなよ。
神に祈るか?
教会に行く間にズドン。祈られる立場になりましたと。
片方が鉄砲を撃つ真似をすると、どっと笑いが起きる。
不謹慎なブラックジョークで笑っているのは、現職警察官だというのだから
世も末か、それとも朱に交われば、の見本なのか。
朱に交われば、の方だ、多分。
頬杖をついて彼らを眺めながら、香子はパソコンを操作して
メールのチェックを行う。
気を抜けば、爪先・皮まで喰らい尽くされる新宿で
まともな人間など真っ先に死んでいく対象だ。
死にたくなければ変わるしかない。
暗闇に慣れ死を思い、目に見えない秩序の存在を許容する。
だが、それに慣れながらも、目に見える秩序を構築しようとしている人間が、
果たしてこの建物の中にどれほど居るというのか。
金と引き換えに汚職に手を染めている警官は、
この街では少なくない。
全体総数と比べて、汚職警官の数が七割超えてたら最低。
他人事のように思いながら、香子はパソコンでのメールチェックを終え、携帯端末を弄くる。
『一通の新着メールがあります』
携帯端末でも、パソコンと同様にメールチェックを行うと
こちらには、新着メールが一通。
指先を滑らせて、メールを開く。
メールの題名はトクトク更新。
内容は、頭の悪そうな文章で、お小遣いサイトの更新情報が綴られているだけ。
しかし香子は、メールを読んで小難しげな顔をして
こっそりとため息をついた。
香子は汚職警官ではない。
どこの組織とも癒着はなく、彼らから金を受け取ったこともない。
だが、正義に燃えているかといえばそうではなく、
犯罪に手を染めたことがないかといえば、これもそうでもない。
保身半分趣味半分。
香子は情報屋とも犯罪者とも面識があり繋がりがあり
借りが有り貸しがあり
―要するに、東側の住人達とは隣人として上手くお付き合いしている。
具体的には、東側で起こったことに対して、見ざる聞かざる言わざるを貫いているだけだが。
たまに、あちら側で起こった厄介ごとに自分が駆り出されそうなときには
警察内部の情報も握りつぶしているけれど。
(それに関してはどちらかというと保身が大きい)
死にたくないから目を瞑る。
死にたくないから関わらない。
金銭も受け取らない。
どこかにつくということは、敵が増えるとイコールである。
そんな警官らしからぬ香子のスタンスを面白がってか
いくらかのあちら側の住人は、香子に対して好意的だ。
そのうちの一人、路地裏に住む情報屋からよこされたのが、先のメールで。
内容は、一見ごく普通、しかしその普通の文章の中に
隠喩暗喩暗号で、情報屋は情報を寄越している。
『犬と蜂が動くらしいぞ』と。
あぁ、厄介だ。
香子はげんなりとしながら携帯端末を閉じた。
新宿で犬と言えば、狂犬。蜂といえば女王蜂しかいない。
いずれもネストと呼ばれる犯罪組織と関係している、殺し屋の名だ。
しかも、すこぶる腕の良い、だ。
その二人が同時期に動くと?
なんて、縁起の悪い。
身震いする感覚は、これから起こることへの恐怖ゆえか
はたまた期待ゆえか。
どちらの感情なのかは、香子自身にも分からない。
…分からないことがおかしくて、こっそりと自嘲する。
業の深い。
…香子が新宿警察署にいるのは、実に物好きなことに自分で希望して、だ。
死にたくもないのに、どうしてか。
別に正義に燃えてのことではない。
香子は香子の趣味ゆえに、新宿警察署に籍を置いている。
人体についての仮説で、こういう話を知っているだろうか。
意識が命令を出して体を動かしているのではなく、
体の中のそれぞれが、細かく切り分けられその一つ一つが反射で動き
その反射の中で、最適な行動を記憶するために
意識という記憶媒体が存在すると、そういう話。
意識が体を支配するのでなく、体が意識を支配する。
なんとも胸がもやつく話だが、そのもやつきすらも電気信号の一つで
先の話しで言うならば、切り分けられた一つ一つの動きが寄り集まった集合の結果でしかない。
だが、それでは納得できないような、体よりも意識が先に立っているとしか思えないほどに
『生きている』人々の燃やす、揺らめく篝火。
………香子はその火を見るのが好きだった。
人の燃やす火を見るのが好きだった。
苛烈な意思を持つ人間の燃やす火だけが、香子に受動的でない意識を信じさせてくれる。
だから、香子は『ここ』にいるのだ。
死を隣人とするこの街には、火を持つ人々が山のように居るから。
………しかしさて、と香子は思う。
狂犬と女王蜂。
彼らもまた、火を持つ人間だと香子は確信をしている。
人を惹きつける何かを持ったもの。
近づきたいと手を伸ばして、近づけないと分かっていながら
望む人々の真ん中に立って笑うもの。
それが、火を持っていないわけがない。
その彼らが動くなら、それも二人揃ってならば
上る舞台は華々しく苛烈で、それを観劇するならば
これ以上ないほどの、火を見せてくれることなど分かりきっているのだけれど。
しかしそれでも。
「宇宙でやれ、宇宙で」
彼ら二人が動くということは、影響範囲はそれなりになる。
こちらにまで被害が及びそうな舞台は、ごめんこうむりたい。
香子は舞台に執着するが、自身の命にはもう少しばかり執着している。
管轄外でやってくれないだろうかと、酷いわがままを考えながら
香子は荷物をまとめて帰り支度をする。
観劇は、火の粉が及ばない舞台の外で行うものだ。
でないと、冷静に見られない。
どうすれば、安全圏に居られるのか。
出来るだけ動かず、安全地帯を確保する算段を頭の中で段取りながら
香子は扉に手をかける。
帰りの挨拶を室内に投げかけて、それから一瞬。
先ほど声をかけてきた同僚の姿を探そうとするが
思い返してみると、声をかけてきた同僚の顔は霞がかっていてはっきりとは思い出せず
室内に居る誰とも判別が出来なかった。





















香子が居を構えているのは、東と西の狭間だ。
規則正しい秩序を正義とする警察の支配下と、
目に見えない秩序を信仰とする犯罪組織の狭間。
一見落ち着いているように見えて、一枚めくれば静かに犯罪の横行している
自らの住処を、香子は気に入っている。
秘め事のように銃声と悲鳴があがる道を通り抜け、
古ぼけたマンションの中に入る。
飾り気のないコンクリートの外観のそこに、香子の居はある。
三階の一番隅側。
何年暮らしているのか分からなくなるぐらい
長く居る家の玄関をくぐって家に入ると、バニラの香が鼻腔をくすぐる。
ドライシガーの香だ。
甘い匂いのするそれは、香子のお気に入りで
昨日とて吸っていたが、はて。
換気は十二分にしたはずで、こんなに濃い匂いがするはずはない。
不審に思いながら、しかし何故だが警戒する気にはなれなかった。
バニラの匂いをたどって、寝室に歩み寄り、警戒する気になれない気分に従って、
懐の銃に手もかけずに扉を開けると。
寝室の真正面に置かれたベッドに、女が一人腰掛けていた。
頭の左横で髪を束ねた女だ。
不服げな表情でこちらを見ている彼女に、見覚えはなかったが
香子は彼女が何であるのか知っていた。
あぁ、これが、俺か。
「お邪魔しています」
「あぁ、やぁ、俺」
「こんにちわ、私。と言いながらイコールではありませんが」
「ニアイコール?」
「勿論です。同じでは話が出来る意味がない」
「なるほど、これはこれはどうも」
「えぇ、それはそれは」
頷きを、同じように同じだけ。
しかしニアイコールであるから、女はやや性急に、自分はややゆっくりと。
同じタイミングで始めて、別々に顔を上げる。
「今日は何をしに?」
「少し、幕を上げに」
持ち上げる動作をする女の手には、一本ドライシガーが握られていた。
火のついたそれを見ていると、女もそちらに視線をやって
「あぁ、一本」
「それぐらいは、どうぞご自由に」
頷いて、香子は女の横に腰掛けた。
幕を上げにきたんです。と、女はもう一度言う。
「幕を上げたあとは?」
「あなたの自由に」
「逃げても?」
「観劇はしていただきたいですが」
ちらりと横目で女を見ると、女はつまらなそうな顔をしてこちらを見ている。
その表情に、香子はやれやれと肩をすくめた。
「そうは言っても、死ぬのは俺だよ」
「そうは言われても、死なない、と思いますよ、多分」
「多分!」
「アドミニストレーターの権限など、私は持っていませんから」
手に持ったドライシガーを弄びながら女が言う。
それに、なるほど、と頷きながら香子は、女の手からドライシガーを取り上げ
灰をベッド脇の灰皿へと落とした。
「なるほど、多分ね」
「えぇ、多分」
「…まぁ、物事に絶対などということはありえないな。
ない証明はある証明よりもはるかに難しい」
「えぇ、はい。それはそうです」
「そうだな、それもそうだ。ところで一応聞いておくが、近づいて欲しいか?」
「いいえ、それは我々らしくはありません。止めましょう、そういうのは」
「火の粉は被らない?」
「対岸の火事という距離感が丁度良いかと。…まぁ、ニュースやゴシップ誌よりかは近く」
「やはり観客席ぐらいで」
全ての問いに、女は即答だった。
なるほど、確かにこれは近似だ。
分かっていたことを、更に確認しただけに終わった問いを
反芻してため息をつくと、同時に女もため息をついた。
それに女の顔を見ると、女もまたこちらの方を見る。
二人してまたも同時に眉をしかめ、それから女だけがベッドから立ち上がる。
「そういうわけで、幕開けは終わりましたから、一応帰ります」
「また来るんだろう?」
「はい、また私の好きなときに」
手ぶらできたらしい女は、そのまま三歩歩いて、ぴたりと足を止めた。
そのままくるりと振り返り無表情でそうそう、と口を開く。
「知ってますか、この舞台、愛と自由がキーワードだそうですよ」
「なるほど」
情報に、香子は頷きで答える。
それはまた難しげな題材だ。
理解しきれないから、人はいつでもそれについて話を紡ぎ歌を歌うのに。
…答えは見つかると思うか、と問いかけかけて、それを飲み込む。
それを観るのが、自分の選んだ役割だ。
女は暫く黙って香子の顔を見つめていたが、やがて視線を外し
「まぁ、それもこれもまた一つ宿題ということで」
呟きのように言い捨てて、扉に手をかけ、さっさと部屋から出て行く。
シガーの灰を灰皿に落として、香子がその後を追うと
女の姿はもはや何処にも無かった。












あちらの世界での私について

名前:香子(こうし)
職業:警官

汚職警官ではないが、正義の警官でもない。
………人殺しや人身売買など、色々なものを見逃しているが
お金を貰ってないから、汚職ではない。
組織に言われて見逃しているのでもない。
ただ、『自主的』に見ない・聞かないだけ。
保身第一。
お金?お給料で十分です。
命あっての物種です。
近頃街を騒がしている、狂犬と女王蜂の騒ぎについて?
管轄じゃないところでやれよ。ふざけんな。くそ、死ね。
………そういう人間、警官なので、危険なことに自分が巻き込まれないよう
警察内部の情報を意図的に握りつぶすことや
また、警察に情報が渡らないように、自分の命に影響が出ない範囲で
画策する事が、たまに、極たまにある(頻度はあくまで本人基準)
…無論、中立。



あちらの私は男。
空想は自由なので。

おっさんで、面倒ごとが嫌いで人間も嫌い。
どぶの臭いが好きで、命が燃える様を見るのも好き。
人の死体(中身)を見るのも嫌いじゃない。
だから新宿は嫌いじゃない。
ただし、面倒ごとは嫌い。
大事なことなので三度言う。
面倒ごとは、嫌い。
今の警察の立ち位置、街でのバランス位置が好きなので
それを崩されることを好んではいない。
組織の勢力図が変わるのも歓迎しない。
自分の力を分かった上で、やれる範囲内で、自分の欲望のままに生きている。
生き汚く、命にしがみついているが、
そのくせ危ない橋を好んで渡るのは嫌いじゃない。
ただし、好んで橋を渡らせるには、相当に彼の興味を惹かなければならない。