狂犬VS女王蜂製作委員会 境界管理担当の結城です

皆様、魔都での生活はいかがですか?
接続時の混乱がひと段落し、こちらでの日々も楽しんで頂けているでしょうか


近日中に第二陣のゲスト登録を行います

対象は既にレジスタンス部隊として活動しているメンバーで、メールで連絡可能な方

前回の解放では、ドメイン許可を行っていない等の理由で招待状が届かなかった方が
数名いらっしゃいました
そういった方々には委員会から連絡する手段がございません

現実世界での活動も行ってらっしゃる皆様同士メール、
もしくはブログ等で周知して頂き、魔都新宿拡大を手伝って頂ければ幸いです




[Mad Dog部隊]
hamidashi_thehandsinpockets@hotmail.com

[Queen Bee部隊]
mail@beth8.net

「あぁ、そうだ」
突然に、女がこちらに向かって腕を伸ばした。
机の向かい。
いつもの定位置からの、いつもとは違う行動。
…何だというんだ。
突き出された女の腕。
手の中の一枚の紙を視認して、俺はそれは。と女に尋ねる。
しかし、女は答えもせずに、俺のほうへと
その紙を差し出してくる。
女の手に触れないよう、紙を受け取ると女は
「どちらがいいですか?」
と問うてきた。
質問に質問で返すな。
よほどそういってやろうかと思ったが
喋るのが面倒になって言葉を飲み込む。
そして、喋る代わりに俺は受け取った紙に目を通した。
…書いてあることの内容は。




狂犬率いるMAD DOG部隊か
女王蜂率いるQUEEN BEE部隊を


選択してください。



………選択。
女の顔を見る。
「満月の晩に、始まるっていったでしょう」
「そうだったな」
ごほうび、だったか。
「お前の希望は?」
「あなたが、入るんだから、あなたの希望を尊重しますよ」
「ふぅん」
それは、お優しいことで。
だが、俺が許可したのだから、仕方が無い。
どうせ選ばれないだろうと、たかをくくっていたのが悪かった。
俺は、胸ポケットからペンを取り出して、片方に丸をつけ女に返す。

それを受け取って、女はあらと呟いた。
「MAD DOGなんですか」
「あぁ」
「私、女王蜂のアドレスにメールを送ったんですよ」
「知るか。お前が選べといったんだろう」
「それはそう。それはそうです。
…理由は、リドルの答えが気になると」
「そう。その通りだ」
「女王蜂は」
「あちらには、居るだろう」
この間知った者の事を思い出しながら、どうせお前伝手に聞けるよと
さらりと流すと、えぇ、と女が頷いた。
「そうですね。理解されてるようで何よりです。
情報の共有は、死なないためには必要不可欠ですから」
言われた言葉を聞き流しそうになったが、どうにも不可解な単語が聞こえなかっただろうか。
…情報の、共有?
それが指し示すところを考えて、思わず俺は頬をひきつらせる。
「………おい」
「…何です?」
「今の正直な感想をいってみろ」
まだ手に持っていたペンで女を指しながら、問い詰めると
女は少し首をかしげ、紙に目を落とし、指先で丸をなぞり
「あなたがMAD DOGを選んでくれて良かった。
QUEEN BEEを選ばれたら、説得しないといけないところでした」
「お前、な」
「あの人と、あなたがやり取りをする必要はありませんよ。
私と彼女が共有して、あなたがたにバックするだけです。
……中立的でしょう?」
微かに微笑んで言った女に、俺はいつかの感想を否定する。
こいつと、あそこのあれは確かに友情で結ばれているらしい。
ため息をつきながら、俺は首を振った。
頭が痛い。
「それは、中立ではなく、共犯・裏切りといったほうが正しいだろう」
「敵か味方か、選びたくないならこういう選択肢もありではないです?
向こうは、情報が多く欲しいというのもありありでしょうが」
「そう、そうだな。…まぁ、それは俺達も変わらないか」
「はい、死にたくないなら」
「そう、死にたくないならな」
…さて、どうするか。
私はパソコンの前で、画面を見つめていた。
………開いているのは、私の側の、ネット画面。
魔都新宿オンラインについての説明。
実に面白い企画である。
彼にも参加して欲しいが、是というだろうか。
「ねぇ、私。参加したいんですけど」
ぼんやりと画面を見つめていると、後ろを通りかかった彼は
「いいんじゃないのか?」
「え、良いんですか?」
「…選ばれなかったら、選ばれないんだろう?」
「はい、えぇ。そうです」
「じゃあ、いいじゃないか」
はなから、自分が選ばれるとは思っていないそぶりで
彼は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
…牛乳というところがあれだが、彼は酒が嫌いなので仕方が無い。

………それが、一週間ほど前の話で
この間、招待状が来た。
女王蜂も、狂犬も、そのチームのメンバーも。
そして、もう一人の自分の居る人間達も、そこに居る、新宿の街への招待状。

「…来ましたけど」
とりあえず、招待状を見たときの彼の愕然とした顔というのは
非常に見ものであったので、いつか詳しく描写して
ここを見てくれている人たちに想像させてやりたいものだ。







…しかし、魔都に入ってからというもの、彼は画面のこちら側で
頭を抱えて沈んだりのた打ち回ったりしている。
見ている分には面白いが、時々哀れだ。
理由は…(検閲に引っかかったので削除とする。見た人は、こっそり心の中に秘めていて欲しい)
牛乳を片手に私は「可能性を考慮しないから」
珍しい彼の短慮に、苦笑しながらコップの中身を飲み干した。
…とりあえず、彼には何も言わずに、魔都で公開しているものを
もう一つ転載して帰ろうと思う。
玄関から、彼の家に上がると、彼は台所の椅子に腰掛け
ひっそりと泣いていた。
私は驚き、そのまま踵を返し、帰ろうかとも思ったが
その前に彼に見つかって、視線がかち合ってしまったので
仕方なく、こんばんわと挨拶をする。
自分でも聊か間が抜けているように感じたそれに、彼は掠れた声であぁ、と小さく返す。
その様子に、これは重症だと思いながら、私は彼の対面の椅子へと腰掛けた。
椅子の音にまぎれながら、鼻水をすする音がする。
鞄に入れていたちり紙を投げ渡すと、彼は鼻水をかんだ。
「何があったんです」
聞くべきか、黙ったまま傍にいるべきか。
迷いながらも、私が決断して彼に問いかけると、彼は一瞬固まった後
俯きながら、口を開く。
「糞ガキどもが」
ぼそりと、呟かれる声には怒気が篭っていた。
いや、それだけではなくて、多分殺気と呼ばれるものも。
それに私が体を固くしている間にも、彼は言葉を続け
「…近所の、糞ガキどもが野良犬蹴飛ばして遊んでた」
「……………えぇ…」
「尻に爆弾突っ込んで遊ぶって話をしてた。内臓が破裂して楽しいって」
「………………」
…なんて、残酷な。
知らずのうちに、顔を険しくさせていると、私よりもよほど険しい顔をしたまま彼は
「から、ぶん殴って気絶させて、警官の俺は警官らしく
ガキどもをそのままスナフキンに売り飛ばしてきた」
「スナフキン」
「ビデオ」
スナフキンビデオ。連想されるものは、スナッフビデオ。
おそらく確定である。
一足飛びにそこか。と私などは思うものだが、目の前の彼は
「……………動物に向かってそんなことするやつは
八大地獄に落ちるといい。俺は良い事をした」
きっぱりと、言い切った彼の顔は真剣だ。
心底そう思っているのだろうことが窺い知れる。
…つまり、香子という人は動物>∞>人間なわけだ。
人が嫌いなのは知っていたけれど。
動物虐待で、スナッフビデオね。
それも如何なものかと思ったが、彼には許しがたかったらしい。
まぁ、許せなかったのなら、仕方ないか。
私のところと、こちらの常識は違うのだから。咎めても仕方ない。
私は額を触りながら、そう結論付けた。
それにしても、泣かなくても良いではないか。
未だ涙を流し続けている彼を見ながら、私は自分の頭をかく。
大の男に泣かれても、どうしていいのか分からない。
しかも、泣き方が目を開いたまま、ごく普通の顔をして
しかし涙だけ出てきているという、嫌な泣き方だからなおさら。
「…コーヒーでも飲みますか」
「…俺の家だが」
「持ってきたのは私ですよ」
立ち上がり、冷蔵庫からパックコーヒーを取り出して、彼と私の前に一つずつ置いた。
「ところで、あなたベジタリアンでしたっけ」
パックコーヒーにストローを刺しながら問うと、首を傾げられたので補足する。
「いえね、肉は動物の肉じゃないですか。動物がお好きのようですから」
「食べるために殺すのは良いんだ。食べないのに殺すのが駄目。遊びなら尚更」
「犬も?」
「犬だろうが猫だろうがゴキブリだろうが、食べるんなら良いだろう。
それは自然の営みに沿った結果だ」
やはり、彼はきっぱりと言う。
そのきっぱりはどこから出てくるのかと思ったが、横に置いて置いて
私は目の前の男を見た。
繋がっている、私。
「やっぱり、似ているのは似ているんですよね」
コーヒーを飲む前に小さく呟いて、ストローを咥える。
彼が何を言ったのかと、問いかけるような視線を向けてきたが、私はそれを無視した。
彼は、しばらく私のほうを見ていたが、私に答える気が無いのを見ると
諦めてコーヒーを飲みだす。
「…ところで、お前はコーヒーばかり持ってくるな」
「紅茶のほうが好きですか」
「牛乳が好きだ」
「その割には、牛乳はありませんね」
「一人じゃ飲みきれない」
くだらない会話。
けれど、その会話の間に彼の涙は止まり、彼は飲みきれない、と言う時に
微かに笑みを浮かべる。
そうそう。
忘却が早いのが『私』なのだから。忘れてしまうといい。
素知らぬ顔をしながらコーヒーを飲んでいると、
不意に彼が雰囲気を変えた。
探るような気配に、こちらも身構えていると
彼はこちらに視線を向け、目を細め薄く笑う、が。
すぐにため息をついて、手の中のパックを弄びながら
視線をはずした。
「それで」
「はい」
「お前はいつ、繋がりに行くんだ」
問いかけに、私はあぁ、と内心で納得する。
恫喝しようとしてやめたのか。
………私もまた、手の中でパックを弄びながら
目の前の彼から視線を外して、言葉を選ぶ。
「とりあえず、ですね」
「あぁ」
「直近の奴は無理です」
私の回答に、彼は大きく頷いた。
「直近は行かれても困る。準備が出来ていない」
「ですよね。私も色々と都合があるので」
そう。色々と。
年を食うと、色々と考えることも、やることもあって困る。
どうしたものかと上の空になりかけたところを、彼に促される。
「で?」
私は答えようと口を開きかけたが、思い直して、上を指差しながら
「…えぇと、後は内緒です。行くのは確定ですけれども」
「……あぁ、なるほどな」
「はい」
「しかし、分からんのは困るな」
「後で手紙を渡しますよ」
「あぁ」
ここでの会話は傍受されているのだ。
好んでさせているともいうが。
「…暗号でも決めますか?」
「考えておく」
「こちらでも考えておきます」
頷きながら、私は誕生祝いのメールのことも、レジスタンス部隊のことも
何一つとして彼に詳しく説明していないことを思い出す。
…面倒だ、とは思ったが、一応彼へのナビゲーションは
私が選んだことであるので、私はそういえば、と、彼に向かって切り出した。
「そういえば、色々と話すことがあるのですけど」
「なんだ」
「色々は、色々。女王蜂からメールが来ましたとか、
私が参加しようとしている、レジスタンス部隊のこととか」
「あぁ。なるほど。そう、そうだな…メールは、メールが送られてきただけなんだろう。
女王蜂のメールはこちらのパソコンに転送。
レジスタンス部隊のことも、ついでに説明書きをこちらに送ってくれればいい」
口頭で説明を受けるほどのことでもないと、彼は言う。
まぁ、私があちらで行うことというのは、直接的には彼にはさほど関係の無い話ではあるけど。
例えば、こちらと繋がっている誰かと仲良くさせようだとか、
繋がるとき以外に、私が、私の世界と、こちらをリンクさせようと
そういう類の行動をとらなければ。
今のところ、私にその意思は無い。
もしも、繋がっている誰かと繋がっても、その繋がりは私で止める。
―彼にはなんら関係ない話だ。
「もし、なにがしかを、あなたにして貰わなければならないなら。
事前に報告は上げますよ、私」
「そうしてくれ、俺。早め早めの連絡報告相談は重要だ」
彼は、軽く頷いて胸元からシガーを取り出す。
その様子をぼうっと眺めていたが、質問を思いついて私は再び口を開いた。
「そういえば」
「…うん?」
「一つ言葉での確認を取っておきたいんですけど」
「どうぞ」
よろしいですか、と手を挙げ、対象に促されて私は質問を続ける。
「あなたが舞台に近づかないのは、死ぬのが嫌だから、ということで良いのですよね。
近づけば近づくほどに、死の確率は高まる」
「まぁ、それも一つ」
彼は頷く。
「付け加えるなら、近づけば近づくほどに、冷静に見られなくなるから」
「それも、一つ」
彼は頷く。
「最後に。近づけば近づくほどに」
私は、口を開きかけ、そして閉じる。
これに関しては。
私は逡巡して、結局言葉にするのを止めた。
向こうで、香子がシガーに火をつけつつ、眉間にしわを寄せたのが見えた。
ニアイコールである我々は、大体、相手が次に何を言うかが分かる。
予想がつく。
そして、だから、私が今言わなかったことも、彼には読まれているのだろうけれども
まぁ、まぁまぁ。
「言わなければ、言ってないですから」
「分かっててもな。言ってなければ、言ってないからな」
「はい、えぇ。棘がありますね」
「…それはそれなりに」
言って、彼は火をつけたシガーの先を見る。
これは彼の癖のようなもので、シガーに火を点すと必ずといっていいほど、する仕草であった。
その、癖のようなものというのがごく自然に浮かんだことに
私は苦笑を隠せない。
思考は、始まったときから読めていたけど、私は彼の癖など最初は知らなかった。
まったく。と、思いながらもそれを隠して、私は彼に向かって大仰にため息をついてみせる。
「四度目の時、私を馬鹿にしましたけれどもあなた。
私のことも、言えないのじゃないですかと、言って欲しいと仰る」
「言ったも同然だろう、それは」
個体認識をするのは嫌なんだよと、苦虫を噛み潰したような顔で彼が言う。
それは、もう。彼が今言っていることは、私にもよく分かる。
乱雑に分類して、無理矢理にラベルを貼ったいくつかの棚に押し込めた、押し込めようとしているものを
個別に認識すると言うことは、我々にとっては酷くつらい。
…それが、確認したかったのだけれど。
空になったコーヒーを机において、私は彼を指差し、言葉を吐く。
「…あなたが私と同じなら」
「さぞかし、ここは生きにくいでしょうに」
「放っておけばいい。好きでやってることだ。
えぇ、好きなだけ、好きなように」
「あぁ、好きなだけ好きなように。立ち位置は、変えない。変えたくない」
シガーの灰がじりりと落ちそうになったのに、男が灰皿を引き寄せる。
その姿を見ながら、私は冷蔵庫からコーヒーをもう一つ取り出そうと
椅子から立ち上がった。


歩きながら香子は、疲れ果てたため息を漏らした。
街灯が煌煌と照っている中を歩き、ぼんやりと空を見上げる。
薄く雲がかかった空は暗く、星もわずかにしか見えない。
「…眠い…腹減った…」
欲求をそのまま口に出してみるが、それで解消されるわけでもなく。
「無能な奴は、皆死ねばいいんだ」
呟きは聞くものもおらず、むなしく空気に溶けてゆく。
現在時刻は深夜三時。
何故、このような時間に香子が帰路についているかと言えば
今日の仕事中、同僚がミスをしてくれたことが原因だった。
香子たちの本日の仕事は、未成年者の家出阻止。
全国各地から新宿へと集まってくる、家出未成年者たちを
補導し、元居た場所に送り返すという内容である。
………まぁ、これだけを見ると、なんとも平和な仕事だが
これはこれで中々重要な仕事であるのだ。
全国から、新宿に憧れ上京してくる糞ガキどもの
首根っこを捕まえて元の場所に送り返すことは、
即ち、未来の犯罪組織構成員を減らすことにも繋がる。
密かに心の中でつけているこの仕事の別名は、将来の面倒撲滅運動。
舞台の上に上がれるぐらいの人間ならば、警官ごときに補導されるはずも無い。
捕まるのは、面倒事を起こしてくれるだけの、ただの厄介者候補生たちだけだ。
そして、香子がこんな時間に帰っている理由だが
その厄介者候補生のうち一人を、とある同僚が取り逃がし
追いかけっこがスタート。
開始から、四時間半、探し走り、ようやく捕まえたときには
こんな時間になっていたというわけだ。
まったく実に楽しいことだ。
走りまわされて、くたくたになった体を引きずって
家まで帰ろうかと思っていたが、もはや全てが面倒くさい。
「…もう、いいか」
タクシーを捕まえることすら面倒で、
香子は後ろ頭をかくと、方向転換をして歩き出した。
―目的地は新宿中央公園。



新宿中央公園。
設置されたベンチに座り、香子は胸元からシガーを取り出して火をつける。
「…疲れた」
呟いて、胸にバニラの匂いのする煙を吸い込んだ。
甘い匂いに体の力を抜きながら、香子は辺りを見回す。
昼間はホームレスの姿が多数見られるここだが、
深夜になると途端に人気が無くなる。
…静かなのはいい。
人一人見当たらない暗闇の中、香子は安らいだ気持ちで息を吐く。
圧倒的に膿んだ雰囲気。
暗い暗い闇の中に引きずり込まれるような気配に、香子は緩く目を閉じた。
「…落ち着く」
巨大な無人地帯となるこの公園を、香子は非常に気に入っている。
帰りが深夜になったときには、六割方ここで夜を明かしているくらいだ。
多くの都市伝説の舞台となり、そしてその噂が本当なのではないかと
信じさせるほどの迫力。気配。雰囲気。空気。
そのどれもが、人が居るには厳しすぎて、人の気配を駆逐し
だからこそ香子は安らぐ。
人の思考に興味があっても、人の自我の確立がしたくとも
しかし、香子は個々の人が嫌いなのだ。
人間という種は、愛しているのだけれど。
灰になった先端を地面に落として、香子は中央公園のベンチで一人、空を見上げる。
僅かに見えていた星は、もう見えない。
曇っているせいもあるが、そもそもがこの街では
少しだけしか、星の光が見つけられない。
闇に蠢くものを照らすのは、月の光で十分ということだろうか。
特に、こんな暗闇は。
目の前の闇を見ながら、随分と詩的なことを考え、香子は笑みを浮かべる。
その笑みは、人前では見せないような、そう、恋人に見せるような
陶然とした笑みだった。























「お前はおかしい」
「いや、そんなことはないだろう」
「おかしくないことがあるものか。
普通の人間は、夜の中央公園に近づこうとも思わないし
ましてやそこで一晩夜を明かそうだなんて考えない。
お前はおかしい。絶対におかしい」
同僚がこちらに向かって捲くし立てる。
昨日きつかったな、から始まって、公園で夜明かししたことを
流れで話しただけなのに、どうしてこんなに詰られるのか。
訳が分からず香子は混乱したが、その、眉をつりあげた同僚の表情に
瘴気みたいなものを感じるだけだろうだとか。
そこいらの道端で夜明かしする方が、よほど危険ではないだろうかとか。
ましてや、『何か』が出ても、見たからといって
いきなり死ぬわけじゃないから大丈夫だ。死なないなら大丈夫。だとか。
そういう言い訳をすることも出来ず、
もうするなよ、とこちらに向かって言う同僚に対して、香子はただ
「今度からは気をつけるよ」
と、心にもないことを約束するに留めた。
…そんなきつく言われることではないと思うのだが。

「と、言うことがあったんだ」
「死んでないなら大丈夫です」
「そうだよな。死んでないなら大丈夫だ」
家の台所で、机をはさんで向かいに座る女の同意を受けて、香子は顔を輝かせる。
そうそう。死んでないなら大丈夫。
大体が、瘴気がこちらに何をしてくると言うのだ。
生きている人間の方が、よほど恐ろしいではないか。
瘴気は人を殴らないし、蹴らないし、刺さないし、撃たない。
様々な都市伝説が本当であるのならば、
多少危険であるかもしれないが、香子はまだ一度も
それらの噂が本当であると、自身で確かめたことも無く
周囲の人間が直接に被害にあったという話も聞かない。
だから、噂などどうでもいい。
「フレンドオブフレンドで、真実味を付け加えられ
語られる話は、噂が拡大するにしたがって、センセーショナルになっていくものだ」
だから気にしなくていいんだと香子が言うと、
「その通り!とは言いませんが…噂には尾ひれがつき物ですよね。
都市伝説といえば、私は人面犬ですけど、あれにしたところで
妖怪説・大学のバイオ実験により生まれた悲劇の産物・遺伝子操作による生物説。
出会ったときの行動なんかだと、多種多様すぎて把握できないですし。
これも、人人を介したときに、付け加えられたものの結果ですね」
「人に話すときにはリアクションが取れるほうがいい。
広めるには、より魅力的にする必要がある。
そうして、人の興味を引かなかったものは淘汰され
生き残った結果が都市伝説として人人の間で語られるわけだ。
…まぁ、弱肉強食みたいなものだよな。いや、みたいなじゃなくて、そうなのか」
「そうですね。面白いですよね。どういう話を、人が欲しているのか。
それがこういう所に詰まっていますからね」
「そうだな。…まぁ、俺は未だかつて都市伝説の類を見たことが無いんだが」
「私は見ましたよ」
「いつ」
女の言葉に驚いて聞くと、女は眉をしかめてこちらを見る。
「いや、獅子の仮面の人を見たって言ったじゃないですか」
その言葉に、香子は言葉を詰まらせ、曖昧に濁した。
「あぁ…あれは………どうも…」
「都市伝説の中に含めないおつもりですか?」
「目撃証言が多いものは、一次ソースが多数存在するということで
デマに近い都市伝説の類の中には含みたくないな。
あれはただの変人だろう」
言うと、女は眉間にしわを寄せたまま、窓のほうを見る。
カーテンで遮断されたその先を見る女の視線の行き先は
この間、獅子の仮面の男を見た、一つ向こうの路地だろう。
その方向に視線を固定させながら女は
「………………クロニクルに載ってるってことは、
そのうちに舞台に関わってくるんですけど」
「どういう風に関わってくるのかは興味があるが、
俺の中では都市伝説では無いんだ」
頑固だ。という、女の呟きが聞こえたが、無視をする。
だって仕方が無い。
実在する人物…仮に人物以外でも実際に存在しているのなら、
含みたくは無いのだ。我侭だが。
出来れば都市伝説というのは、香子としては、デマだけで構成されていて欲しい。
「しかし思うんだがな。こんな人が山のように死ぬ場所で
毎日誰かの悲鳴、その他諸々が転がっているというのに
どうして刺激がほしいんだろうな」
しかし、まぁそれはともかくとしてと、顎を手に乗せて言うと
女はそうですねぇと、前置いて。
「刺激というのは、日常外のことですから」
「そうか、そうだな」
「…やっぱり、人間色んなことに慣れていくんですよね」
「まぁ、適応能力だな」
それ故に、都市伝説が数多く新宿では流布されているのだろうか。
死がより強く日常の中に潜むここだからこそ、
ありえないモノを、人は求めているのか。
ふと、女の顔を見ると、女は常どおりのどうでも良さそうな表情だったが
目はやけに輝いていて、こういうものが好きなのかと
香子はどうでもいい発見をした。





「そういえば、私。どれぐらいであなたって死ぬんですか」
雑誌を読みながらおもむろに言い出した女に、香子は視線をやった。
どうでも良さそうな表情をしている。
どうでもいいような問いかけではなかったが。
「お前は俺に死んで欲しいと」
「そういうわけでもない…のか?」
いつものように、お互いがお互いの言葉を獲り紡ぐ
趣味の悪い遊びに興じようとしたが、香子は女の真意が分からず
思わず疑問形をつける。
それに女は、ことんと首を傾げた。
「別に、死んで欲しくはないですよ」
「お前の問いに、どう答えていいのか分からない」
そう言うと、女は傾げていた首を元に戻して、自分のいった言葉を反芻しているようだった。
数拍待ったところで、ようやく自分の発言の言葉足りなさに気がついたようで
あぁと、頷いて、女は香子のほうを指差す。
「あなたは、どれぐらい強いのですか、と聞きたかったのです」
「あぁ。凄く弱い」
臆面無く言い切ると、女は返答に困った顔をした。
そしてそれを表すように、えぇとと、意味も無く呟く。
「凄く弱い。弱いから、努力をしてるんだろう」
「肉体強化的な面で?」
「それはもう諦めた。どれだけ小賢しく生き延びられるかという面においてだ」
香子の肉体的な強さがどれほどかといえば、
そこらのストリートギャング、そう、正式な組織の構成員でない
ストリートギャング三人ぐらいになら、勝てるぐらいものだ。
ようするに、お話にならない。
ごく普通の警官としてはそこそこでも、『ここ』ではまったく、駄目だ。
だから、警察に身を置いて、国家権力の庇護を受け
そのくせ裏の世界とも繋がって、自分の身を危うくするような情報を
潰して壊して遠ざけ、なんとか永らえている。
「話にならないんだよ」
自嘲でもなくありのままの事実を告げて、香子は胸元からドライシガーを取り出した。
手持ち無沙汰なのだ。
女に、胸元から取り出したドライシガーを見せ
女が頷き許可を出したのを確認してから、火をつける。
じりりと、先端が焼け、じわりと煙が染み出す。
天井に煙が昇るのを見ながら、香子はふぅと息を吐いた。
「もしも、があるのなら」
呟く。
「もしも、があるのなら、例えばお前は何を望む。健康な体か」
「あなたは何を望むんです」
頬杖をつきながら、女が目を眇めた。
その視線に笑いながら香子は、そうだなと考え込んだ。
何を望むか。
自分で言っておいてなんだが、望むべきことは、沢山あるように思えた。
例えば、強い腕っ節だとか。
あらゆる場所をハッキング出来るような、情報収集の腕前だとか。
何を探っていても殺されないような、強い権力だとか。
つらつらと頭の中で並べ立てながら、香子は何かが違うような気がしていた。
多分、自分が一番に望むのは。
「正常な、頭を」
声は、互いの真ん中に落ちる。
別に、このくるくると回る、迷路のような思考回路が嫌いなわけじゃない。
人間の意識を疑うのも嫌いじゃない。
人嫌いなくせに、人間を愛しているのも、嫌じゃあない。
ただ、時々は疲れるのも確かで、信じられないものを
願望によって、あるように信じ込んでいるのも、時々は嫌になる。
「たまに」
切るようにして言うと、分からなくも無いですけれどと彼女は頷いた。
「疲れることは、たまにあります。でも、だからといって、それを望むのは無意味です」
女の視線が、ぼんやりと立ち上る煙へと移る。
二人してそれを眺めながら、ため息をつくと、煙はゆらりと揺らいで霞んだ。
「…正常な頭なんて、今さっきの光景みたいなものか」
「そうですね、そうなんですよね、残念なことに」
くるりと女が横髪を巻く。
香子はシガーの灰を、近くの灰皿を引き寄せて落とした。
まったく、何てことだ。
「…とりあえず、我々が望むべくは」
「こういうことを思わない頭だな」
「えぇ、はい」
「我思う故に我有りではないが、疑問を思いつくのが悪いのか」
「はい、えぇ、はい。それはもう。一番の悪です」
なるほど、と呟いて、香子はドライシガーの煙を
女の顔に被せた。
立ち上る白い煙が、女の顔を霞ませる。
正常と狂気とは、こういう曖昧な代物なのか。
…そうなのだろう。
正常と狂気は、自分が決めるのではない。
世界・世間が決めるのだ。
それにしてもしかし。
「望みが、思考停止と言うのは」
「まったく愚かしい」
「そう」
「つまらない」
「もっと別の望みを」
「考えるべき」
「か」
「はい」
難しいなと言葉を吐くと、難しいですねと応えが返る。
悪くない気分で、香子は灰皿に再び灰を食わせた。





窓の外を見ると、雑多な景色があった。
薄汚い子供や、通りが見える。
彼が居住しているのは、西と東の間だ。
規則正しい秩序を正義とする警察の支配下と、
目に見えない秩序を信仰とする犯罪組織の狭間。
一見落ち着いているように見えて、一枚めくれば静かに犯罪の横行している場所。
こうしている間にも、そこいらで人の悲鳴が幾百と響いている。
窓枠に肘をつきながら、私は窓の外を眺める。
こうしている分には、そういうところは見当たらない。
見当たっても、困るけれど。
トラウマになりそうだ。
…そう、思いながらも、なお外の景色を眺めているのは何故だろうか。
見たいのかもしれない。
自虐願望と、単語を思い浮かべながら視線を走らせていると、
ふと、外に奇妙なものを見つける。
「あれは」
呟きながら、私は前に身を乗り出して、見つけたものへと意識を集中させた。
彼の家から一つ向こうの通り、ぎりぎり建物が作り出す死角に入らない位置に居るあれは
「クロニクルの」
呟きが、部屋に落ちる。
一つ向こうの通りにいたのは、えらく派手な風貌をした男だった。
獅子の仮面をつけ、中国風の衣装を纏い、そして手に持った紙切れを
通行人に配っている。
男に紙切れを差し出されると、通行人は皆一様にびくりと体を震わせ、
ある者は勢いに負け手にとり、またある者は早足気味に立ち去ってゆく。
しかし、手に取った者も、紙切れを一度目にした後
首を傾げ、そして男から遠ざかったところで投げ捨てる。
一人や二人ではない。
手に取ったもの全員が、紙を見て、首を傾げている。
まるで、何が書いてあったのか、分からないような顔をして。
「……あは」
思わず、私は笑い声を上げる。
繋がった気がした。
目の前で、読んだ情報がその通りに存在している。
興奮のまま、ぐっと窓枠をつかみ
「どうした?」
―そこで、声をかけられて、私は振り向く。
香子が立っている。
私は、そこに説明をしようとして、窓のほうを振り向く。
すると、獅子の仮面の男は、忽然と姿を消していた。
ビラ一枚、居た場所には落ちていない。
まるで、最初から存在しなかったかのようだ。
私はあそこに、と指しかけた指を止めて、居たはずの場所周辺を
くまなく探すが見つからない。
「あそこに」
居たんだと言いかけ、もう一度見るが、やはり、居ない。
「何が居たんだ」
「仮面の男が」
どう説明するかと思っていると、彼から促されて、私はようやくそれを口にする。
「………仮面…あぁ、獅子の仮面の」
少しだけ考えた後、彼は思い出したようで、はたと言った。
その呟きに頷きながらも、私は興奮に任せて喋りたくる。
「都市伝説だってクロニクルには書かれていましたけど。居たんです。
あそこで、ビラ配ってました。あれが手製の新聞なんですね」
興奮のまま語ると、香子はうんうんと頷いた後、窓の外に視線をやった。
そこには既に男の姿は無く、ただアスファルトの地面と
コンクリートの建物が見えるだけだ。
しかし、確かにあそこに男はいた。
獅子の仮面をつけ、中国風の衣装を身につけ、まことに派手な立ち姿で
手製の新聞を、情報通りに!配っていたのだ。
「……あのですね、初めて、繋がった気がしました」
「そうか。それはそれは」
「えぇ。ありがとう」
いつもと同じ、軽く受け流すような言葉だったが、
その中にそれは良かったと、そのような含みが感じられて、私は彼に礼を述べた。







「それにしても」
彼がどうかしたのかと言うような顔をしてこちらを見る。
それに私は視線を向けず、ただ獅子の仮面の男が居た場所を見つめながら
「友達の友達に聞いた話なんだけど。ここから始まり
まことしやかに語られる都市伝説というのは
大体、広まるに連れて、パターンが増え、センセーショナルになっていくものなんですけど」
「あぁ、危害は加えないと言うあの一文か」
「そうです」
私が頷くと、彼もまた、獅子の男が居たと、私が指差した場所を見る。
「噂が広まっても、本人が頻繁に現れてたんじゃ
いくらセンセーショナルにしても意味がない。
正しい情報が拡散され、間違った噂が淘汰されてるだけの話だろう」
「そうですね。…どれぐらいの頻度で、何処に現れてるんでしょうね」
「さあな」
彼が首を捻る。
見当もつかないようだった。
私にも見当がつかない。
「なんなんでしょうね、あの人」
「さあな」
「何を配りたいんでしょう」
「さあな」
「ちゃんと、人間なんですかね」
それにもまた、彼は「さあな」と返す。
さあなとしか、返しようがないのだ。
「遭遇したら教えてくださいね。出来れば、ビラも持って帰ってきてください」
そういって強請ると、彼は善処する。と言って、窓のカーテンを引き
そして、外の景色は見えなくなった。










こちらと、あちら。
あちらの世界では、あちら側の私の部屋の中でしか、私は存在ができない。
ほかの人間は知らない。
きっと出来る人もいるのだろうし、私と同じように、出来ない人もいるのかもしれない。
しかし、その限られた空間の中で、私はあちらの世界についての情報を集めなければならない。
…まぁ、外に出たら間違いなく死ぬだろうけど。
私は私の限界を良く知っている。
こと肉体において、他よりも私は脆弱にできている。
この間、あちらの私と武器について話をしていたけれども、私の筋力では
女子供でも扱えるような拳銃すら、満足には扱えまい。
……そういえば、武器について話をしていたとき、
彼は何か物言いたげだったな。
どうせ、ろくなことではないだろうけど。
あちらの私、香子の顔を思い返しながら、私はあちらの世界へと足を踏み入れる。
香子は、居ないようだった。
玄関に靴がない。
確認しながら、部屋に足を踏み入れると、バニラの残り香の匂いが、香る。
出かける前に吸ったのだろうか。
「いつ帰ってくるのかな」
独り言を呟きながら、私は部屋の中に勝手に踏み入る。
いつでも上がっていいし、何をしていても良い。
四度・五度目だったか、そのぐらいの回数、彼の家を訪ねたときに
そのような許可を軽々と、香子は出した。
最初は、いくら『私』といえど、他人の家で勝手にくつろぐのは
気が引けたが、本人が本当に気にしないことと
また、回数を重ねることによって、段々と私も彼の家で自由に振舞うようになっていった。
…親しきものに礼儀あり、の範疇でだ。あくまで。
私は真っ先に台所の冷蔵庫に近寄り、その扉を開ける。
ゴマドレッシングからめんつゆ、ソーセージや、ベーコン、卵に茹で麺。
男性の一人暮らしとは思えないような、きっちりと整理整頓された
冷蔵庫の中から、私は自分が持ってきて置いたパックコーヒーを取り出した。
…なんとなく思いついて、野菜室をあける。
きゅうりやトマトなどが入っている。
きちんと野菜を取っているようだ。
次、冷凍庫。
一食分ずつ小分けにされたご飯、安売りの豚、牛、鶏肉。
ちなみに冷凍食品は一つもない。
漁っていないが、インスタント食品も、多分一つもない。
「…………」
お前は主婦か、とか、独身男の冷蔵庫の中身じゃないだろとか
もっと言うときっちりやりすぎていて逆に気持ち悪い…とか、言いたいことはいろいろとあったが飲み込んで
私はパックコーヒーを啜る。
「…………」
私も料理は嫌いじゃないが、ここまでじゃないなと思いつつ、椅子を引いて腰掛けた。
暇つぶしに本でも持ってくればよかっただろうか。
いまだ帰ってくる気配のない、家の主を思いながらぼんやりとする。
手持ち無沙汰気味の私は、思考をめぐらせているうちに
隣の寝室にある本棚の存在を思い出したが
あちらにある本は、心理学だの何だのが中心で、待っている合間に軽く読み進めるような本ではない。
娯楽がないな。
くるりと家にあるものを見回しながら、私は肩をすくめる。
この家にはテレビはない(嫌いなんだそうだ。ちなみに私も嫌い)
簡単に読めるような本もほとんどない(小説は趣味じゃないそうで。ちなみに私は小説も好き)
あるのは立派な台所と、立派な冷蔵庫と、食器と、それから寝室にベッドぐらいなもの。
私は頬杖をついて、くるくると横髪を指で巻く。
あちらの私は、私とそれなりに違うし、私とそれなりに同じだ。
そこが面白くもあり、時に鼻白むところでもあるのだけど。
「料理と観劇以外にも趣味作ってくれないかしら」
今度来るときには、何某か暇つぶし道具を持ってこようと思いつつ
そのまましばらくぼんやりとしていると、ふいに玄関の辺りでがちゃがちゃと音がした。
その音に、私は急いで机の下に身を隠す。
気配は香子のような気がするが、万一違った場合には
こちらからあちらに帰らなければならない。
こちら、で死んだらどうなるのだろうか。
ふと、好奇心が湧き上がるのを感じたが、しかし私が死ぬ側ならば
結果の観測ができない。
この実験は無しだな。
死後の世界、があるのならば別だけど。
くだらない事に思考を割きつつ、玄関が開くのを待っていると
香子が家の中に入ってくる。
「おか」
机の下から這い出て、出迎えようとしたその瞬間。
香子は口元を押さえて、靴も脱がずに部屋の中を走り、そしてトイレへと駆け込んだ。
私がその行動に目を瞬かせているうちに、トイレから、おえぇっという
物を吐く声が聞こえてくる。
二度、三度、断続的に、声が部屋に響く。
その声に続いて、びしゃびしゃという水の跳ねる音、吐瀉音。
「え、ちょ、大丈夫ですか?!」
急いで声をかけながら、それでも玄関に鍵を閉めてから
トイレへと向かうと、彼は便器にしがみ付きながら、もはや出ない中身を搾り出すように
死にそうな呻き声を漏らした後、トイレの壁面にかかっていたタオルで口元をぬぐう。
「……問題ない」
少し枯れた声で答えを返す様子は体調が悪そうには見えず、
私はそれにひとまず安堵しながら、でも…と続ける。
「でも、どうしてそれなら吐いたんですか」
「…娼館に行ったからだ」
その答えでは不十分のような気がしたが、自分自身に当てはめて考えれば、得心がいく。
他人の体温が、気持ち悪いのか。
知らない女を抱くのがそんなに苦痛か。
その場では我慢できても、自分の縄張りに帰ってきて
気を抜いた瞬間に駄目になるのか。
そうか。
…それは、仕方ないな。
いっそ何もかも投げ出してしまえばよいのに。
思うのは簡単で、言うのも容易いけれど、私はただ「お茶でも持ってきましょうか」
と彼に問いかけ、彼はそれに頷いた。
いっそ何もかも投げ出してしまえばよいのに。
人嫌いの癖に、人が好きで、矛盾を抱えながら生きていて
人の思考に興味があって、それの証明を命題として生きているような
そんな人間にそんなことを言ったところで無駄だ。
…手のかかる子。
私はコップにお茶を入れ、トイレに運ぶ。
香子の前にコップを差し出すと、彼はわずかに目礼をした後、お茶を口に運んだ。
「………良い情報は得られましたか?」
「特別。どうもない。明日は情報屋に接触してくる」
「…そんなに集めなければいけないんですか?」
「死にたくない。でも観劇はしたい。面倒ごとは避けたい。
なら、その努力はする。当然に」
「…………肌で感じなければ分からないこともありますか」
「加えて、お前が知らない情報も、持っている可能性がある」
私は、現場の緊迫感は伝えられない。
知らないから。
それに、私が知らない情報というのは、十二分にありえるので、私はやはり口を噤むしかない。
それでも、目の前で人が吐いていれば心配なんだけど。
背中でもさすれれば、少しは私の気は晴れるのだろうが
いくら近似とはいえ、私の体温すらも彼は嫌がるのを知っていたので
堪えながら見守っていると、香子はコップの中身を全て飲み干した後おもむろに
「しかし、今日作ったグラタンは良い出来だったんだが」
その呟きの内容に、私は耳を疑う。
「…あの、あの…ですね。今日は最初から娼館に行くつもりだったんですか?」
「?あぁ」
肯定される。
「………夕食を、食べる前から?」
「あぁ。それが?」
「………あの、娼館に行く日は、夕食は帰ってきた後食べたらどうです」
きょとんとした目の前の人に、思わず突っ込みを入れると
香子は虚をつかれた顔をした後、あぁ…と小さく声を漏らす。
その様に、私は気がついていなかったんだなということを察して、
苦笑いをしながら目をそらした。
日々は静かに過ぎてゆく。
香子が私物の拳銃を分解して遊んでいると
突如として机の向かい側で携帯を弄っていた女が噴出した。
「や、やりやがった!」
「………………」
気でも狂ったのかと、突如として言葉遣いが乱暴になった
女を胡乱気な目つきで見つめると、彼女は携帯をこちらに投げて寄越す。
眉間に皺を寄せながら内容を確認して
「………おい」
「私のせいではないです、多分」
画面に表示されているのは、小説、のような日記のようなもの。
その中には、見覚えのある単語が、一つ、二つ、三つ。


『友人は女性。
かれこれ数年の付き合いになる、気の良い友人だよと私は言う。
こちらの方は、とウェブは重ねて問う。
そちらの方は男性。どうやら警官らしい。』

『彼は別に真面目な警官という訳ではないよ。
ほどほどに仕事をして、ほどほどに悪事を見逃したりもする。
しかし賄賂を取る訳でもなく、自主的に、淡々と、それらをこなしている。
掴みどころが無いと言えばそれまでだけれど、
人間らしいと言えば人間らしいのではないかと思う。
彼はただ自分が厄介事に巻き込まれない為に、
私達のように積極的に彼らに関わろうとする人間には近付きたがらないんだ』

………どう考えても。
自分のことであると、馬鹿でも分かる。
それだけならまだいい。
話の種にされているだけだ。
しかし、話はどんどんと嫌な方向へ向かっていき最後には
『彼は狂犬と女王蜂に関する情報は提供してはくれないけれど、
彼がここ数日見聞きした事が載せられた、
とあるブログがあるのだ』
…話の終盤には、見覚えのあるURLが表示されていた。
非常に、見覚えがある。
誰にも見せるつもりなどない、片隅で遊んでいた代物だ。
香子はしばらくの間、画面を見つめていたが
やがてため息をついて、携帯を振る。
「…顔も知らない人間に、自分を語られると言うのは
どうも…なんといえば良いのか、面白いというか、奇妙というか」
「あら、怒らないんですか」
目を瞠る女に香子は首を振って否定を示す。
「今更。怒ったところでどうなるというんだ」
すでに掲載されてしまっている代物。
どうしようもない。
その香子の返答に、女は一瞬考えるそぶりを見せたが、すぐに
「それは、そうです」
と頷いた。
「お前の差し金と言うわけでも」
「まさか。どんな馬鹿です、私は」
女の表情を注視しながら、香子が問いかけると
彼女はとたんに勢いよく否定をした。
自爆行為ですよと続けた女に、香子はそれもそうだと深く頷く。
女は香子を通してこちらを見ているのだ。
香子を危なくするような真似は、利を損なう。
しかしそれならば。
「お前は、怒らないのか、俺」
「怒りませんよ、私」
騙し討ちのような形で、自分たちの存在をばらされたと言うのに
女は本当に怒りの欠片も感じていない様子で、ひらりと手を泳がせる。
「便所の落書きは、見られてもどうでも良い、糞みたいなものでしょう」
言葉遣いが汚いと、注意しようかとも思ったが、香子は頷くにとどめた。
今更面倒だ。
そうだなと、相槌を打ちながら、香子はそのまま携帯の画面をスクロールさせて
前の記事前の記事へと遡ってゆく。
ウェブ。
「………動いているとは聞いていたが」
「ご存知でしたか」
目を瞬かせる女に、香子は画面から目を離さず頷く。
「知っている。一応。この間聞いてきた。
どれぐらい知っているかと聞かれれば、
隠し口座から金を見事盗みだして、隠居のような生活を送っていること。
仕事で請け負って調べているうちに、狂犬と女王蜂に興味を持ったようなこと」
「……最近の動向ほぼ全部じゃないですか。
彼・彼女が、それしかやっていないことの証明でもありますが」
「派手すぎる。段々熱が入っているのか。少しばかり」
香子が、その存在を聞いたのは最近のことだ。
女が読んでいたブログ。
その内容を見ていれば、『繋がった』ときの動画あたりで
漏れ出したのかと、簡単に予想はついた。
「彼・彼女は情報を求めていて、現場で流れている噂、空気。
外に出ないと分からないものを渡してあげれば
それなりにギブテイク出来そうですけど、しないんですよね」
疑問ではない。
断定で女は言う。
「情報を、求めているのだとは分かるがな。
俺は、この蜘蛛以上に情報を集めることは出来んだろうよ」
「先ほど言ったことは」
「………言わせたいか」
「一応、明確にこちらからも言っておくべきかなと」
ようやく画面から顔を上げて、女の顔を見据える。
彼女はやはりどうでも良さそうな表情をしていたが。
…アドバイスか。
目の前の女のご友人からも、止めてもらったようだが。
「俺は踊り子には手を触れない主義だ」
「興味を持って調べたのならば、もはや舞台の上の人ですか」
「あぁ、そうだとも。だから、お前の友人にも余り情報を渡すな」
「あなたがそれを望まないのなら」
女が頷く。
言いながら香子は気分が高揚するのを感じた。
舞台に上がったものが居る。
望んで舞台に上がったものが。
くっと笑い声をもらすと、女があぁと嘆きの表情を浮かべて天井を見る。
「楽しそうですね」
「楽しいさ。あぁ、楽しいとも」
「そのうち飽きて、舞台から降りてしまうかもしれませんよ」
「いいや、明確な意思を持って、舞台に居続けるよ。予感だが」
「……やはり、すごく楽しそう」
「楽しいさ。あぁ、楽しいとも。
きっと舞台の真ん中じゃない。それでも舞台の上で追いかけるよ、この蜘蛛は。
狂犬と、女王蜂という誘蛾灯に対して明確に意思を持ってね。
そこにこそ、俺は火を見るんだ」
目を細めて、男は笑う。
舞台の上には上がらない、男が笑う。
さぁ、見せてくれと。
追いかけるお前もまた、消えない熱を持つものだろうと。
くっくと、更に声を漏らして笑うと、女がちいさく謝罪の言葉を呟いた。
誰にか。
おそらく友人に。
そこでふと我に返って、香子は女に向かって、おい、と呼びかける。
「そういえば、だ。知り合いならば忠告してやれ。
先ほども言ったが、動きが最近派手過ぎる。多少漏れているぞと。
良い思考を持った個体に消えられるのは惜しいんだ」
「本人も、自覚があるようですけど。止まらないんじゃないです」
「好きにやらせておけば面白いが、しかし。………いや、お前が良いなら良いんだろう」
「はい」
たやすく女は頷く。
その様に、蜘蛛の片割れの女の友人と、女。
両者の間にあるはずの友情について、香子は考えかけたが
恋人同士の間の愛について、他者には分からないように
友情もまた、そういうことなのだろう。
大体、どうでもいい。
軽く流すことに決めた香子は、次の疑問を女にぶつける。
「ところで言い訳はされたのか」
「言い訳になってない言い訳なら」
「良いのか」
あっさりと女が答える。
その淡々とした調子に思わず問いかけると、女は少し首を傾げて
「ちょっと欲望に忠実な方が、見ていて可愛いんですよ」
「巻き込まれてもか」
「許容範囲内です」
「あぁ、そう」
「あなたが怒るなら、話は別でしたけど」
言われて香子も考える。
別に、怒るほどのことでもないし。
大体。
「………ちょっと欲望に忠実な方が、見ていて面白い」
「許容範囲内ですか」
「許容範囲内だな」
二人して頷く。
正常よりかは、少しばかり壊れているほうが。狂っているほうが。
好みというやつですね。
誰に言うでもなく言った女の言葉に、香子は頷きながら
女の携帯電話を操作して、表示されているURLをメモする。
「抜かりが無い」
「観察対象だといっただろう」
笑いを含んだ声で言われて、素知らぬ顔で返すと、女がくすくすと笑い声を上げる。
が、しかし。
URLをメモし終えたところで、香子ははたと気がついた。
気がついたことに、同情を覚えて思わず手を止めると
女もそれに気がついたようで、視線でどうかしたのかと聞いてくる。
「…俺は、思うんだが」
「はい」
「お前の友人は、俺のことを蜘蛛にばらしたな」
「えぇ、はい。そのとおりです」
「そして蜘蛛は俺のことを知った。知っただけだ。
『俺』に特別興味は抱いちゃいない」
「はい。肯定します」
「そうだな。そして、俺だ」
自分を指差す。
「俺は、今のことが起こる少しばかり前から、蜘蛛のことを知っていた。
しかし、狂犬と女王蜂のことを調べているという裏が取れていない状態で
未確定という棚に放り込んでいた。
が、しかし」
「今のこれで、確定情報になったと」
「然り」
「…なんとなく、分かりましたがようするに」
女が歯切れ悪く促す。
それにつられて、こちらも歯切れ悪くなりながら
「暴露をしたのは、向こうのほうが先なわけだが
あちらは、明確にこちらの観察の対象になったのだから、
向こうの方がダメージが大きいのじゃないか」
「………………」
無言で女は香子を見て、それから携帯に目を落とす。
気難しそうな、子供のような、そのくせ蜘蛛の巣のように張り巡らせた情報網を持つ人。
彼・彼女は、探るのは好きそうだが、
どう贔屓目に見ても、探られるのは好きとは思えない。
「………どうしても嫌なら、人を使って俺を殺せばいいのではないだろうか」
「自分で提言してどうするんです」
「少し親切を」
「普段の警戒振りは何処へいったんです」
「お前の友人に、口止めしておくべきだったんじゃないかと、詰めが…」
「あぁ…こっそりと」
「やるべきだった。こういう形ではなく」
「…あちらの自分に」
「恨むなら…」
文章として残してしまった、片割れの自分へと恨みはぶつけてほしいと
責任を擦り付けつつ、部屋の二人は沈黙した。
詰めが甘いだとか、口止めぐらいするべきだとか
こういうところから漏れるんじゃないかだとか
そういうことを言ってやったほうが良い様な気もしたが
二人ともが押し黙ったまま、気まずげに沈黙を続ける。
しかし二人ともが、先ほどのURLを消そうとも消せとも言わず
とりあえずのように、女が「コーヒーでも飲みましょうか」と提案し
香子もそれに「そうだな」と、乗り…そしてこの話題が再び二人の口にのぼる事は無かった。



メモ
http://ameblo.jp/paradoxia24/













追記

お互いに無言で画面を見詰める。
読み進めているうちに知らずよった眉間の皺に気がついたが、
そのままにしておく。
向こうから見られたので、私は一つ。と、何か言われる前に声を上げた。
「一つ、折を見て話すつもりでした。
二つ、客席から動くつもりはありません。
ニュースやゴシップ誌よりかは近く、やはり、観客席で。
三つ、こんなところまで話していいと、許可は出していません」
「………それならいいがな」
特に怒った調子もない声にほっとする。
が、しかし。
私は再度友人の書いた物を見た。
蜘蛛と、友人のやり取りはどうでもいい。
ただ、情報の横流しの部分が。
「…お前」
「はい」
「お前の友人は口が軽いな」
「というよりかは、話すのはかまわないんですよ、ただ、お互いの間で秘していてくれればよいだけです」
「あぁ…」
彼が、僅かにため息をついたのが聞こえる。
珍しいとは思ったが、私も釣られてため息をついた。
これを、書いて、こちらが捕捉しているのだから、あれこれを見れば
こちらで揉め事が起こる可能性が高いことなど、考え付くのは容易いだろうに。
「計算だったら、文句は言いませんけどね」
「そうだな」
「多分違うんですよね、多分」
「…………………嘘でいいから、計算だというように言っておいてくれ」
「承ります。ところで挑発をされていますけど」
「構わない。目的と立ち位置と、全てが違う」
「そうですね、えぇ、そうです」
「…で、お前はもう、この友人に何も話すな」
疲れをにじませた声で言われて、私はそれはもうと、一二もなく頷いた。


バニラの匂いのする部屋での会話。

愛と自由ってなぁに?
愛は氷で自由は空気
愛と自由ってなぁに?
愛は愛していると言い張ること、自由は自由だと言い張ること

「随分と、文学的な」
一人が呟くと、もう一人も
「随分と、投げやりな」
呟きに混じる揶揄に言われた両者は片眉を上げる。
「言葉の意味を汲み取るのは自由」
まず、口火は先に揶揄されたほうが切る。
それに揶揄したほうは「まぁそれもそう」とあっさりと頷いた。
両者の間に介在した、僅かな緊張感はそれで早くも霧散する。
互いが互いに、血気盛んなほうではないためか、
それとも他人への興味の無さゆえか。
答えの無いものを考えるのは、非常に非生産的だと
二人ともがそれを考えるのを同時に止め
「それでは、いつもどおり情報を」
「一体何の遊びだった」
「少し。折角の題ですから」
「遊びましょう?」
「えぇ、当然に意味など無く」
「それはそれは」
「これはこれは」
二人ともが声をそろえて肩をすくめる。
お互いの意見など、耳に入れる気も無いことを
二人ともが分かっているお題遊びなど何の意味があるというのか。
それとも、意味が無いからこそ遊ぶのか。
その答えは自分しか分からないところに、意味を見出しながら
一人と一人は視線を交わしあい、言葉を交わした。