(218)VELVET PΛW 〜プログレッシブ・ロックとJ-POPの間で(第八話) | skyp2tの音楽が好き!

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〈ベルベット・パウの歴史 part.10〉



VELVET PΛW

左から

高澤祥子(g)、桐生千弘(dr)、須賀直美(vo)、平野安芸子(b)、増田友希江(key)



1989年7月21日にCBS/ソニーから1stアルバム『VELVET PΛW』でデビューした


ベルベット・パウ



まずは1stアルバムからこの曲を


AIM OF LOVE







雑誌『ロッキンf』の別冊として1985年に発刊し、イカ天に始まる空前のバンドブームの中で発行部数を伸ばすも1993年に廃刊になったJ-ROCK雑誌『PLUM』。


その1989年8月号にデビュー直前のベルベット・パウのインタビュー記事が掲載されており、


桐生千弘が15才で結成した当初から名付けていたこのバンド名「VELVET PΛW」について本人による解説が書かれていました。


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桐生「猫の前足は、普段はホワッホワッとしていてかわいいけど、ちゃんとツメも出るよ、みたいな両面的な感じがバンドに合ってるなと思って」


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バンドの今後について、


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須賀「うちのバンドは、サウンドと詞でイメージの追求をしていく音作りが得意なんです。でもデビューをきっかけに、メンバーの幅広い音楽性を生かしながら、もう少し身近なテーマを歌っていきたいな」


桐生「いい意味で、もっとPOPにしていきたい。ファースト・アルバムは、正直言うとベルベット・パウの変身中の音だと思う。今までの集大成であり、これから私たちが作り出していきたい音も入っている。バンドの過去・現在・未来の要素がいっしょくたになっていて、それはそれで私たちのこれからが表れてるんじゃないかな」


変拍子他凝りに凝って、ち密なアレンジがしてある9曲。レコーディングも大変だったろう。


桐生「苦労もしたし、勉強にもなった。でも目標があるから頑張れるの。それはヘヴィメタ、パンクと限定した音楽、つまり"それもんにはなりたくないね"っていうこと。そう、"パウもんになりたい"が私たちの合言葉なの。音楽のジャンル的に無制限でいたいし、いい音楽、楽しい音楽を作っていきたい」


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「いい意味でPOPにしていきたい」


という

桐生千弘の言葉どおり、


1stアルバムのクレジットでは


All Songs Arranged and Produced

(編曲・プロデュース)

by VELVET PΛW


と記載されていた箇所が、


2ndアルバム『SIGN

(1990年7月1日リリース)


では、


All Songs Arranged and Produced

by VELVET PΛW and Masanori Sasaji


そしてCo-Producerには

Takayuki Hijikata

との記載に。


そう、

よりPOPに=よりマスに、

より多くの人に音楽を聴いてもらうため


セルフプロデュースという

自分達だけで音楽を作るという形態をあえてかなぐり捨て、

新たなベルベット・パウ像を追求すべく



当時多くのバンドをヒットに導き成功していた



笹路正徳(ささじまさのり)




を共同プロデューサーに、

その笹路正徳の盟友


土方隆行(ひじかたたかゆき)


をサポートプロデューサーに迎え


ベルベット・パウの2ndアルバムが制作されたのです。



笹路正徳

バンドブームと重なる1980年代後半から平成にかけ、現在有名なミュージシャンらのヒットシングル/アルバムのプロデュースを多く手掛け、一躍ヒットメーカーの仲間入りをしていました。



笹路正徳がプロデュースした

特に有名なグループのシングル・アルバム

がこちら💁‍♀️



ユニコーン


シングル

・「大迷惑 / 服部」(1989年、2曲をプロデュース)

・「デーゲーム」(1989年、坂上二郎とユニコーン名義、2曲をプロデュース)


坂上二郎とユニコーン 

デーゲーム


ユニコーン

大迷惑



アルバム

・『BOOM』(1987年、6曲をプロデュース)

・『PANIC ATTACK』(1988年、全曲プロデュース)

・『服部』(1989年、全曲プロデュース)





プリンセス・プリンセス


シングル

・「恋はバランス」(1987年、2曲をプロデュース)

・「My Will」(1987年、2曲をプロデュース)

・「Get  Crazy!」(1988年、2曲をプロデュース)

・「Diamonds / M」(1989年、2曲をプロデュース)

・「世界でいちばん熱い夏」(1989年、2曲をプロデュース)

・「ジュリアン」(1990年、2曲をプロデュース)

・「OH YEAH!」(1990年、2曲をプロデュース)

・「Seven Years After」(1991年、2曲プロデュース)

・「KISS」(1991年、2曲プロデュース)

・「ジャングルプリンセス」(1992年、2曲プロデュース)

・「パイロットになりたくて」(1992年、2曲プロデュース)

・「POWER」(1992年、2曲プロデュース)

・「ふたりが終わる時」(1993年、2曲をプロデュース)

・「だからハニー」(1993年、2曲をプロデュース)

・「SUMMER VACATION」(1994年、2曲をプロデュース)

・「Birthday Song」(1995年、2曲をプロデュース)

・「Fly Baby Fly」(1995年、2曲をプロデュース)




プリンセス・プリンセス

世界でいちばん熱い夏





アルバム

・『TELEPORTATION』(1987年、全曲プロデュース)

・『HERE WE ARE』(1988年、全曲プロデュース)

・『LET'S GET CRAZY』(1988年、全曲プロデュース)

・『LOVERS』(1989年、全曲プロデュース)

・『PRINCESS PRINCESS』(1991年、全曲プロデュース)

・『DOLLS IN ACTION』(1991年、全曲プロデュース)

・『BEE - BEEP』(1993年、全曲プロデュース)

・『Majestic』(1993年、全曲プロデュース)

・『 The Last Princess』(1995年、全曲プロデュース)





SHOW - YA


シングル

・「限界LOVERS」(1989年、プロデュース)

・「私は嵐」(1989年、プロデュース)

・「叫び」(1990年、2曲をプロデュース)

・「ギャンブリング」(1990年、2曲をプロデュース)


SHOW-YA

限界LOVERS



アルバム

・『Outerlimits』(1989年、全曲プロデュース)





スピッツ


シングル

・「裸のまま」(1993年、2曲をプロデュース)

・「君が思い出になる前に」(1993年、2曲をプロデュース)

・「スパイダー」(1993年、2曲をプロデュース)

・「ロビンソン」(1994年、2曲をプロデュース)

・「涙がキラリ⭐︎」(1995年、2曲をプロデュース)

・「チェリー」(1996年、2曲をプロデュース)

・「」(1996年、2曲をプロデュース)

・「スカーレット」(1997年、2曲をプロデュース)

・「夢じゃない」(1997年、2曲をプロデュース)



スピッツ 

ロビンソン


スピッツ 

チェリー






アルバム

・『 Crispy!』(1993年、全曲プロデュース)

・『空の飛び方』(1994年、全曲プロデュース)

・『ハチミツ』(1995年、全曲プロデュース)

・『インディゴ地平線』(1996年、全曲プロデュース)




ザ・ブリリアント・グリーン


シングル

・「 There will be love there - 愛のある場所」(1998年、2曲プロデュース)


重要曲

ザ・ブリリアント・グリーン

There will be love there - 愛のある場所



アルバム

・『the brilliant green』(1998年、4曲プロデュース)




何故ここまでのヒットメーカーである


笹路正徳ベルベット・パウのプロデュースをすることになったのか。


プリンセスプリンセスSHOW-YAのようなレディース・バンドであったこと

ソニー系列のミュージシャンであったから


これらは多分どれも正解でしょう。


でも私見としてはもっと違う理由があるのではないかと思っていまして、


それを知るには

プロデューサー笹路正徳自身のプロフィールを紐解いてみなければなりません。


それについては

次のブログに続きます。



それでは

🐈🐈‍⬛🐈にゃー