(196)N.W.O.B.H.M.この一曲(アイアン・メイデン関連その4) | skyp2tの音楽が好き!

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80年〜00年代の邦楽・洋楽が大好き!
いいなと思ってる曲を勝手に紹介してま〜す


今回は
前回に引き続き
アイアン・メイデン関連として

クライヴ・バーが在籍したバンド

ストレイタス

を形作った
グループメンバー

左から 
 Tino Troy (ティノ・トロイ: g)
Crive Burr (クライヴ・バー: dr)
Chris Troy (クリス・トロイ: b)
Bernie Shaw(バーニー・ショウ: vo)
Alan Nelson (アラン・ネルソン: key)

について
紐解いていきます。


まずは

PRAYING MANTIS
(プレイング・マンティス)

1973年、

イギリス🇬🇧ロンドンで
ティノ(g)とクリス(b)のトロイ兄弟
が学生時代に結成したバンド

JUNCTION(ジャンクション)


が始まり。


その後
バンド名が
PRAYING MANTIS
(プレイング・マンティス)
カマキリ
 (前脚を振り上げる姿勢が祈り🙏の
格好に似ていることから、
praying=祈っているという
形容詞がついたそう)

となったのは
1975年から76年に在籍した
Stan Cunningham(vo)
在籍時、

曲のバッキング・ボーカル
を机の上のマイクに向かって
前屈みにしゃがみながら
録音しているのを見ていた
スタン

「お前達まるで
重しが乗ったカマキリみたいだな」


と笑い転げたのが
始まりらしいです。

その後

78年に
Captured City
Lovers To The  Grave
Johnny Cool
The Rippar
4曲のデモを作成。

アイアン・メイデン
Rob Angelo(g)加入後から

ロンドン・キングズベリーにあった
イギリス🇬🇧で唯一の
ヘヴィ・メタルディスコ

DJニール・ケイの伝説的クラブ
ザ・ヘビーメタル・サウンドハウス


に頻繁に出入りし
デモテープを渡したところ

当時既に人気だった
アイアン・メイデンサムソン
と共にクラブで大ヒット。

アイアン・メイデンブレイク
のキッカケとなる
ザ・サウンドハウステープ

(1978年12月31日発売)

※これが正真正銘の『ザ・サウンドハウステープ

手書きのカセットテープ


※よく知られているこちらのバージョンは

日本🇯🇵製のブートらしいです。


のパート2に
プレイング・マンティスが選ばれ
自費出版で

THE SOUNDHOUSE TAPES PART 2

(1979)


を発売します。

PRAYING MANTIS -
Captured City

※『ザ・サウンドハウステープス2』収録バージョン。



※1980年2月16日、サウンズ誌掲載広告。端にプレイング・マンティスデビューシングル『ザ・サウンドハウステープスパート2』発売中との広告が。



※1980年2月前半にアイアン・メイデンとDJニール・ケイが帯同する「メタル・フォー・マタス」ツアー(58日間のU.K.ツアー)にプレイング・マンティスも参加する内容が書かれた記事。

ちなみにmathasとは、ヘヴィメタル好きメタラーを指すスラング。元々は「お前の母ちゃんでべそ」的な意味らしいです。


PRAYING MANTIS - 

Lovers To The Grave(1979)

※有名クラブ、マーキーでのライブ


シングルを出し、
アイアン・メイデンともツアーをし、
ファンからも人気を博し、

これでメジャー・デビュー出来る!

と思ったら
レコード会社からオファーが来ず
かなり苦労したらしいです。

しかし1981年、
アリスタレコードと契約を交わし
メジャーデビュー。



※メジャーデビュー当時のラインナップ
左から
クリス・トロイ(b.vo)
スティーヴ・キャロル(g.vo)
ティノ・トロイ(g.vo)
デイヴ・ポッツ(dr)

そして同年、
念願のスタジオアルバムを発売。


PRAYING MANTIS -

 Time Tells No Lies

 (1981年4月3日発売)




傑作アルバムですね。

その後セカンド・アルバムの製作を
進めていたものの、
アリスタからの契約を切られることに。

その時代のバンドがこちら





※ トム・ジャクソン(vo、左から4番目)在籍時(1981年10月-82年3月)の写真。未発表音源集『デモラビリア』でトム・ジャクソンボーカル曲「Heartache」が聴けます。


※大変珍しいプレイング・マンティス6人時代の写真。スティーヴ・キャロル(g 左から2番目)脱退直前、バーニー・ショー(vo 真ん中)加入直後の1982年3月、本当に短い期間に撮られたと思われます。左はキーボードのジョン・バービン


そこで
プレイング・マンティス
はアリ地獄に嵌ってしまいます。


オジー・オズボーン
の元敏腕マネージャーで元妻
シャロン・オズボーン
の実の父

メタル界では
悪名高き男

ドン・アーデン率いる
JET RECORDS
と契約してしまうのです。

ジェット・レコード
ミュージシャンの飼い殺し
で有名で、

それはあのゲイリー・ムーア
ですら
逃れることの出来ないものでした。



プレイング・マンティス
多分に漏れず
シングル
Turn The Tables
(1982年8月27日発売)




PRAYING MANTIS - 

1983年末

プレイング・マンティス

という名前のバンドは

解散に。



そんな時

ライブ仲間で兄弟分のバンド


アイアン・メイデンにいた

クライヴ・バーがフリーに

なっていたことで

新しいバンド構想が立ち上がり、


クライヴのネームバリュー

を元に

クライヴ・バーズ・エスケイプ

が誕生したという訳です。



一方

ボーカルのバーニー・ショウ

プレイング・マンティス時代の

1982年3月頃に

加入する訳ですが、


元々は

NWOBHMバンドのひとつ

に数えられる

GRAND PRIX

(グランプリ)

というバンドのボーカル

でした。


GRAND PRIX


※真ん中がバーニー・ショウ


1978年、

PARISとしてパブを中心に活動。

サッド・カフェギラン

のツアーサポート経験あり。


1980年にバンド名を

グランプリに変更。


その時にカナダ🇨🇦から

バーニー・ショウ

を招集したようです。


その年の夏に

大手RCAレコードと契約。

すぐに

あの伝説的ライブ・フェス

レディング・フェスティバル '80

に参加。


グランプリの他、アイアン・メイデンプレイング・マンティスサムソンデフ・レパードガールエンジェル・ウィッチタイガース・オブ・パンタンスレッジハマーレッド・アラートといったNWOBHMバンド、そしてUFOホワイト・スネイクブリザード・オブ・オズオジー・オズボーン)、ギランパット・トラバース・バンドG-FORCEゲイリー・ムーア)、ロリー・ギャラガークロークスバッジーマグナムなど、80年のレディングはHR/HM一色でした。


同年ファースト・アルバム

GRAND PRIX

を発売。




※どちらも1stアルバム収録曲。聴いてわかる通り、他のNWOBHMバンドと比べてかなりカンサスフォリナージャーニー、といったプログレ・ハードやフュージョンに傾いたバンドでした。


1981年の後半に

バーニー・ショウ

バンドを脱退し、


翌年3月頃

プレイング・マンティス

合流したという訳です。



話は

ストレイタス

に戻ります。


1984年


日本🇯🇵でアルバムを発売できたものの


現地イギリス🇬🇧や

ヨーロッパでの活動は

当時では

難しかったようで、


翌85年には

成功を得ることなく

バンドは解散してしまいます。






時代はさらに進み

1990年。



NWOBHM

10周年で

これまで忘れ去られ埋もれていた

NWOBHMバンド達の


CDリイシュー化が

日本🇯🇵中心に進む中、



NWOBHM蒐集家でも有名

ご存知メタリカのドラマー

ラーズ・ウルリッヒ


が編纂した


NWOBHMコンピレーションの

歴史的決定打

NWOBHM '79 Revisited



が同年発売され、

一気にNWOBHM再評価

の機運が高まる中


なんと

プレイング・マンティス

ティノ(g)&クリス(b)のトロイ兄弟

アイアン・メイデン

ポール・ディアノ(vo)

デニス・ストラットン(g)


そして

NWOBHMバンド

WEAPONウェポン)の

ブルース・ビスランド(dr)

による奇跡のバンドが


1990年4月18日

中野サンプラザで行われた

NWOBHM10周年記念コンサートの

1日だけのスペシャルバンド

として来日。


大盛況に終わるわけです。


そのコンサートはライブ録音され、

後に日本🇯🇵のみで

公式CD化されます。


1990年6月21日発売

ライブ!

※ライブシューティングから2ヶ月でCDリリースする素早さ。当時の日本🇯🇵のレコード会社はやはり凄い!


その後

世界的に

NWOBHM

再評価されて

いくことになります。


個人的には

複数のメタル雑誌が

NWOBHMを特集した

1987年から

NWOBHM

を少しずつ中古レコード屋

で探し始めていました



"最後のライブ"と銘打った

このライブでしたが、


このコンサートで

プレイング・マンティス

復活します。



ポール・ディアノを除いたメンバー

で1991年、

日本🇯🇵のポニーキャニオンと

直接契約。


再結成を果たし、

同年アルバムをリリースします。


またも日本🇯🇵のみの

契約となった

プレイング・マンティス

ですが、


今回はバンドは

軌道に乗り、


今もメンバーを変えながらも

バリバリの現役。


今年新アルバムを

発表しましたね。


現在のPRAYING MANTIS




こちらは

涙無くしては見れない

奇跡のライブ動画です。


PRAYING MANTIS -

Children Of The Earth (1995年 Live)



1995年8月19日発売、

プレイング・マンティス

4枚目のフルアルバム

To The Power Of Ten

発売に伴う日本公演は、


メンバーの

ブルース・ビスランド

(dr 元 WEAPON)


※左端がブルース・ビスランド(dr)


が負傷したため、

代役としてツアーに参加したのが



クライヴ・バー


その人でした。



ボーカル: ゲイリー・バーデン

(元マイケル・シェンカーグループ

ギター: ティノ・トロイ

ギター: デニス・ストラットン

ベース: クリス・トロイ

ドラム: クライヴ・バー







とにかく凄いメンツです。

このメンバーの並びを見ているだけで、

めくるめく歴史絵巻が、


ぐるぐる🌀と頭の中を

駆け巡り泣きそうになります

・・・😢



最後に

1995年の日本公演の最大のハイライト


これまで

何があっても

ずっと応援してくれていた


日本🇯🇵のファンに

対する


メンバー達からの

最大限の感謝が


力強く

本当に素晴らしい演奏。


こちらにガンガンと

伝わってきます。


メンバーも

本当に楽しそうです。


ティノ・トロイ

デニス・ストラットンの肩に

笑いながら

手をのせるシーンには

おもわず涙しました。


当時このライブを

観に行った方は


神ライブ


を観たことになりますね。



めっちゃ羨ましいです。



感動が押し寄せる

こちらのライブを💁



1993年5月21日発売

PRAYING MANTIS

3枚目のスタジオアルバム


A Cry For The New  World


収録曲より


PRAYING MANTIS - Letting Go






それでは!



IRON MAIDEN in Japan 1981から