家紋文化 はアジアでは日本、そしてヨーロッパにしかない特異な文化として知られています。しかし、もともと「紋」も「章」も中国生まれの漢字なので、その本家の中国に「家紋文化」がないという点はどういうことなのでしょうか?
ユーラシア大陸の東端(日本 Japan) と西端 (ヨーロッパ Europe) で、お互いに何の関係もなく家紋と紋章が生まれ、中国が抜けたというのが面白いですね。そして、また、東端と西端の中間点、インドやアラブ世界にも「紋章や家紋」のような文化が生まれなかったというのも不思議なことです。
さて、ヨーロッパの家紋は、日本の家紋と異なり、貴族が使う紋章は「鎧、鉄兜」(よろい・てつかぶと)の戦闘の紋様が殆どとなっています。
その主な理由は、ヨーロッパの「家紋」は戦いのときに敵味方を区別する為、自分の盾に独自の紋章を描いたのが始まりだからでしょう・・・
従って、ヨーロッパの家紋は「盾型(shield-shaped family coat of arms)」となっていて、威風堂々とした形が好まれました。
何れも、美しく色あざやかで、一目で区別のつく紋章が特徴です。 また、家紋が持てるのは騎士(Knight)以上の身分に限られていました。
これに対して日本の家紋は、平安時代に貴族が宮中から退出する時に、貴族を待つ多くの牛車の中から素早く自分の牛車を見分ける為に、牛車に独自の紋章を描いたのが始まりです。 従って、デザインも植物や身の回りの物が多く、落ち着いた、シックなデザインの物が多いのが特徴です。
日本の家紋の場合、初期(平安時代や鎌倉時代)の家紋には丸は使っていませんでしたが、分家が増えると本家と区別する為に形を微妙に変えたりしました。丸で囲うのも本家との差別化の一環ですが、「元のデザインを丸で囲うのが一番単純で家紋の形の変化が分かり易かったから」と言う単純明快な理由でもありました。
従って、丸の付いている家紋は分家に多く、比較的新しいデザインの物ですが、何れもシンプルで美しい模様です。家紋の基本デザインは250~300種類と云われていますが、素材を組み合わると2万種類以上にもなります。
本来は、家の章(しるし)として使っていたものが、その後時代と共に変化、現在では市町村、学校、会社の標語マークとしても用いられています。
最初に、菊の花を好み自らの印として愛用した天皇は後鳥羽上皇(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇)ですが、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに「十六八重表菊」が皇室の紋として定着してゆきました。
皆さんにとって「紋章」など、まったく自分には関係のない話しと思っているかも知れませんが・・・・ そうでもありません・・・・
例えば、海外旅行をする際にパスポート(旅券)が必要ですが、日本旅券の表紙には十六八重表菊をデザイン化した「十六一重表菊
」が刻印されています。
当時日本には法定の国章がなかったのですが、1926年(大正15年)、欧州にならって急遽採用が決定したものをそのままパスポートに採用、現在に至っています。
日本国の旅券の表は「菊」の刻印ですが、旅券の裏側には「桐」の紋章があるのはご存知ですか? なぜでしょう?
日本の国章(国の紋章)が「菊(十六八重表菊)」で、日本政府、内閣府、内閣総理大臣の紋章が「桐(五七の桐)」だからです。
つまり・・・・日本国の国章が菊、日本政府の国章が桐です。(パスポートをお持ちの方は取り出してご覧下さい)
・・・・・こんな話は面白くないので、裏話をしましょう!
1600年(慶長5年)天下分け目の関ヶ原の戦いでは西側について負けた毛利軍(長州・山口県)と島津軍(薩摩・鹿児島県、宮崎県)が、今度は、幕末には徳川幕府を倒したことで、西側・豊臣秀吉側の仕返し・・・・「私たち西側・関西軍が明治政府を開いたのだ・・・・」の証を滑りこませたものがそのまま残っているのです。すなわち、豊臣秀吉政権は朝廷からいただいた「桐」を家紋として使っていたからです。
慶長時代から、関西人は日本のことを「にっぽん」と呼んでいたので、政府内では「NIPPON」が根付いてしまい、未だにこれが切手や紙幣にも残っています。しかしながら、もし王政復古が起こらずに徳川政権が「明治時代」を開いていたら、関東流で日本のことを「にほん NIHON」と呼ぶようになっていたことでしょう。
今日では、OLYMPIC、サッカー、野球など世界大会では「NIPPON」という呼名がすでに定着しています。(豊臣秀吉時代・関西流のなごりなのです・・・・)
総大将・徳川家康は多少機嫌を悪くしているかもしれません。