
これは幕末期に日本に滞在していたイギリスのパークス公使の部下のミットフォードの回想録です
ミットフォードはあのアーネストサトウの同僚でもあります
サトウの記録は極めて
客観的、冷静でまさに『記録』なのですが
ミットフォードは
それに比べて情緒的な文章で
面白いです。
ちなみに前任公使の
オールコックの文章は
下手くそで
わかりづらいです(笑)
話を戻します
ミットフォードによれば
日本の陸軍と海軍の不仲な理由が実に明快に説明されています
それはイギリス公使のパークスとフランス公使のロッシュの個人的な対立関係にあったからです。
日本海軍はイギリスの支援によって誕生し、
日本陸軍はフランスの支援によって誕生しました。
フランス公使のロッシュはアフリカで活躍した実績ある人物
日本に着任したときは既に50歳をまわっていたベテランでした。
風貌も威厳がありました。
それに比べてイギリス公使のパークスはロッシュよりも一回り以上も若く、見た目もロッシュのような威厳はなかったようです。
・・・が、13歳にして中国に渡って勉強し、アヘン戦争の修羅場も経験していました。
年の割に大変に経験豊富で、極めて優秀な人物だったようです。
自分よりも一回り以上若い部下に
アーネストサトウやミットフォードのような優秀な部下にも恵まれていました。
アーネスト・サトウは 坂本龍馬の『船中八策』のネタ本とも言われている『英国策論』の著者で、日本の明治維新のシナリオを示したとも言われる人物。
幕末期の日本に最も多大な影響を与えた人物です。
パークスはサトウの報告を高く評価していました。
一方、ロッシュには有能な部下は無く、唯一の通訳も途中でロッシュの元を離れて帰国してしまいます。
ロッシュは途中から、自前の通訳を持たず、幕府のフランス語通訳を通しての活動しか出来なくなってしまいました。
パークスは 薩摩長州はもとより、幕府やその他の諸藩からも広く情報を集めて、サトウの『英国策論』を参考にして 薩摩や長州の志士たちに倒幕の指示を出していました。
こうなると、パークスとの間には大きな差が出来てしまった事は明らかでした。
話が長くなるので
途中省略しますが
ロッシュとパークスは
このように対照的な人物でした
パークスはその能力をイギリス本国からも高く評価されていたのに対して、ロッシュはフランス本国からも見限られ、明治維新後は早々に任を解かれて失意のうちに帰国せざるを得ない羽目になってしまいました。
このようにパークスとロッシュは激しく対立しながら、
海軍と陸軍を別々に育てたのです。
本国から呼び寄せた軍の指導教官らも
ロッシュやパークスの意向を強く受けた教育を行ったようです
このため、対立関係の伝統は パークスやロッシュが帰国した明治以降も受け継がれてさらに増長してしまいました。
この後のことは ネットなどでも 広く書かれている通りです。
この時に始まった日本海軍と日本陸軍の対立は様々な事件等絡み合いながら、
やがて第二次大戦での陸軍の暴走の遠因ともなりました。
日本の敗戦の運命は
この幕末期には既に決まっていたのかもしれません。
日本海軍と陸軍の不仲な、理由については諸説ありますが、当事者の証言は重みがあると思います。