昨年末
急逝された河井継之助記念館の稲川昭雄館長から
こんなお話をお聞きしたことがある。
「越後に於いて、戊辰戦争での戦死者よりも、当時流行した感染症による死者の方が多かった」
一方、一昨年 「西郷隆盛 松浜滞陣の謎」という書籍が出版されて話題になった。
長岡における戊辰戦争は 土佐の岩村の稚拙な作戦によって、西軍は苦戦を強いられていた。
そこで長州の山県は薩摩に援軍を求めた。
西郷隆盛は薩摩から300名もの兵士を連れて、長岡藩との戦いに向かった・・・はずだった。
しかし、何故か西郷は長岡藩に近い柏崎や 信濃川沿いに長岡藩へ向かうことが出来る新潟湊には布陣しなかった。
新潟湊と 西軍に寝返った新発田藩の中間に位置するか松浜という漁村に 薩摩藩の兵士を滞陣させたのである。
僅か160戸の漁村に 300名あまりの薩摩藩の兵士を滞在させたのである。
西軍からの再三の要請にも 西郷は明確な理由無しにのらりくらりと1ヶ月も滞在した。
これについて新潟大学のある有名な先生は
「西郷は米沢に進軍するための準備をしていた」との説を唱えている。
それを示唆する文献が見つかったとのことだった。
本当だろうか?
たったひとつのに文献だけで、西郷の行動を決めつけて良いのだろうか?
まず奇妙なことは薩摩の兵士が松浜に滞在した痕跡が抹消されているということだ。
長岡ではどこそこ出身の西軍の兵士がどこの集落に滞在したという記録が残っている。
僅か数十名の兵士でも記録されているのに、松浜では300名の兵士がいなかったことにされていたのだ。
また面会に来た西軍の使いに対して、西郷はいつも横になって応対していたと記録されている。
何故だろうか?
その後の庄内藩との戦いに於いては、敗軍となった庄内藩に対して、寛大な対応をして感謝されたという西郷が、越後では自身の存在すら隠しているのだ。
松浜という漁村は実は交通の便の良いところに位置していた。
新井郷川によって、農村である新崎、商工業の町である葛塚と結ばれていたからである。
新潟湊からも城下町の新発田離れていても、生活物資にはなんら困ることはなかった。
まるで薩摩の兵士を新潟湊や新発田藩にある西軍の陣屋から遠ざけるにはとても好都合な場所だったのだ。
ここで、稲川先生から教えて頂いたことが この事実と結び付くと思う。
「薩摩の兵士が強かったのは 感染症のためである」
薩摩藩の兵士は船で新潟までやってきた。
ところがこの時、船の中は感染症が蔓延していたのではないだろうか?
だからわざわざ新潟湊からも、新発田藩からも離れた松浜という小さな漁村に滞在する必要があったのだ。
幸い松浜は物流には恵まれていた。
薩摩の兵士よりも少ない人数しかいない漁村であっても、新井郷川のは水運によって、食料は確保することが出来た。
西郷は松浜で養生していたのではないだろうか。
長岡藩との戦闘の最中、頼みの綱である薩摩からの援軍が「使い物にならない」状態であったことは当時の西軍の重要な軍事機密であったはずだ。
そんなことをわざわざ西軍が文献資料として残すだろうか?
松浜に滞在した記録まで抹消しているというのに。
新潟大学納品先生方仰るように 米沢に向けて進軍するためだったのなら、なんで松浜滞在の記録まで抹消する必要があったのだろうが?
私はひとつだけの理由で軍隊を滞陣させたり、進軍されたりするとは思えない。
私は文献資料だけでなく、状況証拠からも歴史を検証するべきだと思う。
私の先祖は当時、新崎で そこそこの自作農だった。
ところが明治維新の時に家族の大半が死に絶え、家屋敷も農地もほとんど全て失ってしまう。
よく商人が武士に貸し付けていた借金を踏み倒された話は聞くが、なんで自作農だった私の先祖が借金を背負わされてしまったのか?
私の実家の過去帳をみると、薩摩が滞在していたと思われる頃から始まって、僅か半年の間に子どもや年寄りが7人も亡くなっている。
中には生後間もなくで、まだ名前もない子までいた。
当時の我が家の中は涙の乾く日は無かったことだろう。
にもかかわらず、それについての伝承は伝わっていない。
奇妙なことに当時の新崎では感染症は広く面では発生しておらず、我が家にだけピンポイントで発生していたのだ。
我が家と付き合いの深かった本家や近所の分家からではそのような一家全滅に近い惨状は伝えてられていない。
何故、我が家の先祖だけがこんな目にあったのだろう。
私は我が家の先祖が 西軍の食料や生活物資遠納入していだからではないかと考えている。
薩摩からの感染症を家庭に持ち込んでしまったからではないかと考えている。
薩摩が松浜に滞在した記録は西軍から抹消され、食料を納品した我が家の先祖は 支払いを踏み倒された挙句、薩摩からの感染症までうつされてしまったのではないだろうか?
西郷を含む薩摩からの兵士は松浜から一歩も出ずに、1ヶ月もの間 何もしないで滞在した。
これって今のコロナ対策によく似ている。
もちろん、支配基盤の確立していなかった当時の政府が自身の弱みを公にすることは考えられない。
薩摩からの感染症がなんだったのか不明だが、戊辰戦争では感染症を伴って多くの人々が亡くなったという稲川先生からの情報とこれは矛盾しない。
このことを稲川先生にお話したところ、目を細めながら私のような素人の話に耳を傾けてくださった。
私の考えは 見当違いかもしれないが、いつかあの世で 私の先祖から真相を聞くのを楽しみにしている。