
大林宣彦監督が亡くなられた
私は俳優の尾美としのりさんとはほぼ同世代なので、尾道三部作や新尾道三部作が 青春時代とドンピシャで重なってしまう。
私が最も好きな作品は『時をかける少女』
だって、私は 知世ちゃんのファンだもの。
この作品が発表された頃、私は大学3年生。
その年は1983dをはじめとする明るい彗星が次々に現れた。
大学生活でも充実した年だった。
寮の自治委員会で会計を立て直した。
寮生の文集を企画して作ったり、寮の外部の学生(主に女の子)を集めてイベントを企画、お金のない学生と人手不足の業者との仲介をして 様々な美味しい想いをしていた。
自分があくせく働くよりも、友人や後輩たちを働かせて、私は彗星を見ていた。
・・・それは今も変わらない(笑)
秋には半月ほど学校を留守にして、北海道を望遠鏡を担いで旅をした。
この旅で本物の彗星捜索者、土屋清さんにお会いして感銘を受けた。
そうそう日本農学系学生ゼミナール連合の東北ブロック副委員長という肩書きもあった。
もちろん星ばかり見て、ろくに働いていなかったが、
この活動の傍ら、岩手大学、東北大学、新潟大学の天文サークルの人にお会いした。
そういうわけで、私にとって忘れられない年にこの映画は公開された。
問題はこの映画の舞台となった年も1983年だったことだ。
1983年の春は 1982jテンペル第一彗星が天文ファンの小さな望遠鏡でも見えるようになってきた頃だ。
テンペル第一彗星は周期が5.5年で太陽の周りを公転している。
これはつまり11年で再びような条件で現れるということだ。
11年後の1994年の春、ほとんど同じような位置関係で再びテンペル第一彗星1993cが還ってきた。
1994年の春、
11年前の観測用星図を取り出して、テンペル第一彗星に再会した時は嬉しかった。
1983年の春は
自作15センチ反射望遠鏡だったけれと、
1994年の春は
宇治天体精機の25センチ反射望遠鏡と冷却CCDだった。
私が所属している天文同好会、「星の広場」の会報で観測星図でもある「アストロニュースサービス」を広げて感無量だった。
今と違ってスマホ星図のない時代。
観測星図は本当に貴重なものだった。
どんなに優れた望遠鏡があっても、観測星図がなければ何の役にも立たない。
しかも、彗星は日々移動しているので、観測星図は作っても作っても終わりがない。
当時に星図を作ってくださっていた加茂昭会長をはじめとする有志のみなさんには改めて感謝したい。
それがテンペル第一彗星は11年経てば、再び使える?のだ。
もちろん位置は少しずつずれてしまうけど、比較星の光度はそのまま使える。
こんなオイシイ彗星は他にはない。
・・・で、『時をかける少女』なんだけど、
映画の最初の舞台は1983年の4月。
エンディングでの舞台は1994年の4月。
ズバリ11年後なのだ。

しかも、たまたま曜日まわりまで同じという偶然まで働いている。

なんという天文学的スケールの作品だろうか。
このことは大林宣彦監督はご存知なんだろうか?
大林宣彦監督は 当地長岡でも花火大会を題材にした映画を作っておられる。
長岡造形大学の仕事もされていると聞く。
大林宣彦監督の講演会がされたら、必ず参加してテンペル第一彗星と大林作品との関係について、直接質問してみたいと思っていたが永遠に実現する見込みがなくなってしまった。
本当に残念だ。