「見る」のではなく「観る」視点

「見る」のではなく「観る」視点

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朝から非常に気分が悪い。


私の会社の社員さん。

30歳くらいだが、営業の私に朝から資料を渡してくれるのでそのつど、


「お、ありがとう。助かるわ」


と声をかける。

無視。会釈も無ければ声すらも発しない。


特に嫌われているようでもないようで、他の社員も同じように「あいつは気分が悪い」といっている様子。


恥ずかしいのかもしれない。

面倒くさがりなのかもしれない。

人間関係がわずらわしいのかもしれない。

周囲の人間が無能で、自分だけが仕事ができていると思っているのかもしれない。

なにかトラウマでもあるのかもしれない。

日本社会に不満があるのかもしれない。



しかし、そんなことは誰も汲み取ってはくれない。

嫌われるのは自分だろうし、仕事の連携もできないのだから彼を部下にほしがる人もいない。

どんな事情があろうとも、仕事となればそれは関係がない。



無理に愛想はしなくてもいいが、最低

「はい」「いいえ」「すいませんでした」「ありがとう」はいえないと、無人島で自給自足でもしない限り人間社会では生きるのは難しいだろう。



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うちの2歳になって数ヶ月のムスメは、「ありがとう」がちゃんといえる。


逆にいえば、この世に生まれて2年たてば、他人にお世話をかけていること、助けてもらっていることが十分理解できているということである。

そしてこの魔法の言葉はおそろしい力をもっている。

仕事で疲れていらいらしている私が、おんぶやだっこ、鬼ごっこ、お風呂などどれもこれもハードな課題をムスメが要求してきても、彼女の「ありがとう」がききたいがために、「よし!やってやろう!」となるのである。


もっとうれしいのが、疲れて横になっていると、「おとさん、しんどい」といって背中を軽くとんとん叩いてくれる。


ただし、唯一彼女がいえない、いや、言おうとしないのが「ごめんなさい」である。

わざと水をこぼしたり、物を投げつけてきたりしたとき、「こら!謝りなさい!」といっても、顔を横に向けて絶対に謝らない。

わからないのではなく、謝るということの意味を理解しているからこそ謝りたくないのだろう。


今は謝らせることよりも、こぼしたお水をまずは自分でふき取りをさせ、できないところをやってくれたお母さんに「手伝ってくれてありがとう」といわせるようにしている。

2歳でも挨拶はできる。

他人の気持ちを理解し、自分が一人で生きているのではないことを理解できている。


ではなぜ、30歳のあの若者にはそれができないのだろうか・・・

日本社会のゆがみだから仕方ないのだろうか・・・

とりあえず、私は彼がそのことを理解できようと、できまいと、無言の彼に「ありがとう」を続けていく。

そんなものは無いし、あったら怖い。



ただ、日々の生活で思い通りにならない相手のせいでイライラしている人は多いだろう。

仕事の上司や部下、取引先の客、家では嫁や旦那、娘に息子、姑に舅


今朝も、月曜日一番から会社でもめごと・・・


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アメリカの心理学で受けた20年も前の講義で今も頭から離れない言葉。


「心理学的に他人の心理を変えることはほとんど不可能です。この世の中のほとんどの他人の心を変えることはできません。そのことに不満を持ち、イライラしてストレスがたまる一方です。」


「ただし、唯一ひとりだけ変えることが可能な人がいます。

おわかりですよね。自分自身です。」



最近とくによく日本でも聞くことば。

「他人は変えられないが、自分は変えられる」


あまりにも多くの人が使う言葉で、手垢がついてしまい、むしろ耳障りが非常に悪い。


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ただし、当時のアメリカの講義の解釈はそんなお説教くさいものではなかった。


「自分を変えるというのは、自分の信念や思いをかえろということでもなく、他人に妥協しろということではありません。

たとえば、目の前に泣き叫ぶあなたのムスメがいます。

『泣き止め!!』と脅しても泣き止みません。あなたはもっとイライラします。

そのときに考えてみてください。

あなたはこのムスメさんに対して、何を求めているのか。


泣いている理由がわからないことが不安なら、なぜないているのかとことこん話をきいてみたらよいのです。

泣いていることがうるさくてたまらないのであれば、どうすれば彼女が泣き止むか方法を考えてみるのです。


そして、あなたはムスメに対して最終的にどうなってほしいですか?幸せな人生を送ってほしいというのが彼女に対する最終的な願いなのであれば、今どうあなたが彼女に接することがその目的を達することになりますか?」



当時、独身だった私は20年たった今、たとえ話の通りにムスメがいて、泣いている。


フラッシュバックのようにその言葉を思い出した。


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私はこの子を殴って、脅して静かにさせて、それがこの子の将来にとってプラスになるのだろうか?


そもそも私がこの子が生まれたときの願いは、幸せに生きてほしいということだったはず。


親として、この子と接することがこの子の将来にいろんな影響を及ぼすのであれば、良い影響を与えたい。それなら、やはりなぜ泣いているのかもっとわかってあげたい。泣いているのは、何か不満があるからだろう。脅して静かになってほしくもないし、お菓子やオヤツでごまかして静かにもなってほしくない。


などと考えているその瞬間、気づけば冷静になっている自分がいた。


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仕事も、家庭も、人生も同じなのではないだろうか。

目の前のささいなことで自分の思い通りにならない相手に腹をたて、ストレスをため、悲しみ、他人の悪口や批判をする。

でも、もっと先に自分なりにどう生きたいのか、仕事でどうなりたいのか、家族をどう守りたいのか、普段はおざなりに流しているそんなことをもう一度見つめなおせば、小さいことに腹をたてずに、自分が今何をなすべきか少し冷静に考えられるように思う。



もっと簡単に考えれば、しょうもない他人の一挙一動に怒ったり泣いたり落ち込んだりするんではなく、自分がどうすれば楽しく、幸せになれるのかを考えるということが、「他人ではなく、自分をかえる」ということの真髄なのではなかろうか。


台湾出張の楽しみは間違いなく「屋台料理」。


旅行ではなく、仕事で地元の人たちと食事をするからわかったこと。


それは台湾では安い食べ物ほどおいしく、高級な店ほど正直あまりおいしくないという結論。




初日の今日は台北のトウエン空港から300キロ離れた台南市。


そこでの楽しみは「紅蟻」というお店。




いまの季節、台湾で絶対食べるべきもの。


たけのこのさしみ。

地元の人間である友人の陳さんにおしえてもらった。


「見る」のではなく「観る」視点


日本人なら刺身醤油も相当おいしいけれど、やはり台湾流に、台湾のものすごく甘いマヨネーズが最高にマッチする。みずみずしく非常にやわらかい身で、ゆでたコーンのような甘い風味に絶妙にマッチする。


ツアーで台湾に行く人ならあまり知らないだろうが、日本のたけのこでは生ではたべれないので、ぜひ、一度挑戦してほしい食べもの。



そして、台湾の便ビールには「生」をおすすめ。

おいていない店もあるが、みかけたらぜひ飲んでほしい。

今回のビールはなんと賞味期限わずか18日というもの。



積み重なったストレスからすっかり開放された。

さあ、明日から仕事がんばろう!
「見る」のではなく「観る」視点

「見る」のではなく「観る」視点


小さな子どもがいればたいていお世話になるNHK「Eテレ」。
私は「おかあさんといっしょ」のたくみお姉さんに恋をしていることもあり、毎朝子どもと一緒に朝から幼児番組を見ている。

ノリノリの歌が多く、0歳のときから「キャッキャッ」と喜んでいる。


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ところが、2歳になったばかりのムスメが、突然「シャキーン」という番組の途中で涙ぐんでいる。

それまた、転んだり、叱られて無く「ぎゃーん、うぁーん!」というワンワン泣きではない。
じっとこらえる涙があふれて、それを歯を食いしばっているような感じだ。

どんな歌だと思ってみると、「お星さまは知っている」という歌だった。
特に音色が悲しいわけではない。むしろテンポは良い。
ただ、よく歌詞を見ると結構深い。
http://www.nhk.or.jp/kids/shakiin/song/shakiin_song18.html


その数日後、また同じように泣き出した。

こんどは「いい物語」という話だった。
これまた、音楽のテンポは別に暗くない。
ただ、こちらも人の一生を描いたものだった。
http://www.nhk.or.jp/kids/shakiin/song/shakiin_song_new.html


もちろんムスメはまだ字が読めないので、歌詞を読めないのに。


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生まれて2年。わずか800日足らず。

自分が痛いから泣くのではなく、自分が叱られたから泣くのでもなく、他人の悲しさ、つらさを見て涙ぐむことができる。

自分に直接なんの利害も無いことに対して、感情をしのばせることができる。
心を通わせることができる。

目の前のおてんばムスメがとても美しくてまぶしくて、うれしかった。


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ふと気づいた。

心理学でもこんな話があったような気がする。

もともと子どもはこういう感受性やいろんな能力を本来は備えている。
それを環境にあわせて必要なものだけを残し、残りの能力は不要だと判断して捨てていっていると。

つまり、子どもの成長環境そのものである親がそういう感情を表現する子どもに感心をもたなかったり、叱ったりすると、その能力を捨ててしまうのだ。


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昨日、難波と梅田で買い物をした帰り、ちょうどその中間地点である心斎橋で通り魔殺人事件があった。
この犯人に限らない。
今の日本には人を殺しまではしなくても、心無い人間はたくさんいる。

そんな人間を育てた親は、子どもが小さいころもっていたそんな心を「そんなもの生きていくのにいらないよ」と教えてしまったのだろう。


いや、そんなことは教えていない、と親は思っているだろう。
けれど、「いい学校にさえ入ればいい」「いい成績がとれたらいい」「いい会社に就職できればいい」と言うことは、同じことをなのだ。
勉強と入試と就職以外のことはたいした価値が無いという言葉に子どもには伝わるのだ。

その結果が、もし、今の心無い人間の大量生産だとしたら、なんと悲しいことだろうか。


私のムスメはそんな親御さんたちからしたら、無駄なことばかり教えられている子どもかもしれない。
でも、涙ぐむムスメの姿はなんど思い出しても、こちらまで涙がでるくらいとても輝いて、やさしくて、美しい。

自分の子どもに


「アイスクリーム好きなだけ食べて」

「好きなだけゲームをしていいよ」


といえますか?


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関西TVの報道番組のニュースキャスターをみていて、「いいところに目をつける!」と関心した。


http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2012_05_30.html#02


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冒頭のような会話を実践しているのが、現役のお医者さんだというところが驚きであった。


奈良県の病院の医師であり、心理学の専門であり、そして「子どもの力を信じる育てかた」という本の著者でもある田中茂樹さんの特集であった。


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内容そのものは私にとっては驚くほどのことではない。

20年前にアメリカの大学の講義ですでに受講した程度であることからすれば、アメリカの心理学会ではそんなことはもう30年以上も前にわかっていたことなのだ。


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ところが、日本という文化はとにかく子どもの教育に対しては戦後60年以上、とにかく間違った方向にむかって全力で進んでしまっている。


「不登校」「引きこもり」「学級崩壊」、どれももう社会的に修復不能にすら思えるこの問題。

実は、根っこは非常にシンプル。


「自分で考える力」「自分で判断する力」を子どもの時から育てていないことが原因。



赤ちゃんのときから大人になるまで

「はい、ご飯。ちゃんと残さず食べてね」

「危ないよ、そこからジャンプしたら怪我するよ」

「テレビばっかり見ないで勉強しないと、あなたの将来大変よ」

「テストがんばったね。次もがんばってね。」

「もう受験は2年後にくるんだから、今からこの計画でがんばってね」

「トイレはいった?はんかちもった?」

「手を洗った?」


自分が何を食べるか、いつ食べるか、下手をすればうんこするタイミングまで親に決められている。

痛みを学習するための怪我や病気は、親がとにかく事前に薬や病院や、手を差し伸べることでほとんど体験させない。

小学校のときから、中学、高校、大学受験を計画されてしまい、自分の将来像は描けない。



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自分におきかえて考えてみればいい。

毎日毎日、「あなたのためよ」と言われ続け、すべて計画されている。

親に嫌われることは本能が恐怖するため、親の笑顔をみるためだけに、好きなことを我慢し、嫌なことをやり、いつしか親の望みをかなえるためのロボットのように行動し、自分で何も考えて決めることができなくなっていく。


こんなことを赤ちゃんから22歳まで続ければ、それは当然おかしくなって普通。

まじめに親のいうことを聞く子どもほど、いい子ほど、どんどんおかしくなっていく。



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私自身ががみがみと親に言われて育ち、不登校のこどもたちとかかわり、そしてアメリカでの心理学の教育を経て、いつか自分に子どもができたなら、どうすれば自分の意思をもてる子どもになるかをずっと考えてきた。


そして今、目の前にわが子がいる。


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母である嫁としては、いくら説明しても納得しにくいこともあるようだが、とにかく話合いをしながら一生懸命子どもの意思を尊重するように説明をしている。


2歳の子どもはご飯を食べないときがある。

あげくのはて、ご飯で遊びだし、机を汚しだす。

すると、母親は怒りだし、怒鳴る。

「食べないの!?食べないならこれからオヤツ無しだよっ!」


2歳になったばかりで片言しか話せない娘も、単語から嫁が何をいっているのかわかるのだろう。

大声で泣き出し、ごはんを食べるどころではなくなる。


それを毎日繰りかえす姿をみて、このままだと食事そのものを苦痛に思う娘になると考え、話をした。


「食べないといっても、怒るかわりに、そのままご飯をいったん片付けてみたら?」といった。

そして、案の定食べなくなったときに、お皿をひいて片付けてしばらくすると、「オカアサン、ゴハン。コハル、オナカペコペコ」と、お願いをしてきた。


そして食べ始めるやいなや、ものすごい勢いで食べてしまった。

それを見る嫁は、結局とてもうれしそうな顔をしている。




母親としての気持ちはよくわかる。

●食べてくれないと健康的じゃなくなるかもという不安

●決まった時間に食べてすませてくれないと、自分の用事ができないという都合

●せっかく作ったものを拒否されたという怒り


けれど、怒鳴り、怒りでいつか食べるようになったとしても、それは子どもにとって強制であり、まるで囚人の食事のように、食べることそのものが苦痛なものだと心理学的にインプットされてしまう。


だから、親として本来すべきは、目の前にゴハンがあるときに食べなければ、次の食事まで何も食べれないということを理解させればいいのではないかと思う。


叱らなくても、食べてもらう方法はあるということだ。



また、人間というのは本来自分で自分の体をよく知っている。

どんな栄養が不足していて、何を食べればいいのかということを。


本当に食べないときは、本当に体に栄養が十分である場合もある。

それならば、無理にたべさせ続けるほうが、自分の体の状態を理解する能力を失い、いわゆる「過食症」「拒食症」といった状態になる可能性もある。



一番いけないのが、オヤツで釣る方法だろう。

「ゴハンをたべたらオヤツあげるよ」


これは説明する余地も無い、最悪な方法だろう。


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食事に限らず、私は1歳くらいのときから、こんな風に、一つ一つ、娘のとる行動に対して本人の意思を尊重できるように配慮を重ねている。


自分でいうのもなんだが娘は本当に生き生きしている。

そしてそんな彼女がとてもいとおしい。


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時間があれば、食事に限らず、子どものしつこいかまって病や、画面にひっついてテレビをみるくせ、人を叩いたり、ひっぱたくくせ、人見知りなどについての対応や考え方も書いてみたい。



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いずれにせよ、この田中さんの決断はすばらしいが、子どもが成長してから気づいたことがつらいところ。

幼児が自由にしたところで、大して被害はない。

けれど、体が大きくなった青年たちが「自由」に動くと怖いものがある。


それの最悪なパターンが30を過ぎての引きこもりや殺傷事件、薬物依存だろう。


自我、自意識、自分を生きる能力というのは、できるだけ小さいうちに「すませておく」ほうがいいだろう。