◆『冬の傘』
初雪が降った夜、志乃はふと押し入れから和傘を取り出した。
夏の花火を宿したあの傘は、今はただ古びた紙の色をしている。
外は冷たい風が吹き、街灯の下で雪が舞っていた。
志乃が傘をそっと広げると、
内側にだけ、深い雪が降り積もっていた。
外の雪はまだ薄いのに、傘の内側ではすでに冬が完成している。
白い息が傘の中へ吸い込まれ、静寂が志乃の耳を包んだ。
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傘の内側には、雪原が広がっていた。
音がない。
風もない。
ただ、雪が降り続けている。
その中央に、湊の影が立っていた。
夏の花火の中で見た影よりも、ずっと静かで、ずっと遠い。
志乃は思わず息を呑む。
「湊……?」
声は雪に吸われ、影には届かない。
湊はただ、雪の中で立ち尽くしていた。
その姿は、まるで“記憶が眠る前の最後の形”のようだった。
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志乃は傘の内側へ手を伸ばす。
指先が雪に触れた瞬間、
雪は光の粒となって崩れた。
冷たさはない。
ただ、静かに消えるだけだった。
湊の影がゆっくりと志乃の方へ歩き出す。
しかし、その足跡は雪に残らない。
影は歩いているのに、世界は何も変わらない。
志乃は気づく。
この冬は、記憶が形を失う季節なのだ。
夏の傘では触れられなかった火の粉があった。
秋の傘では温もりを残す紅葉があった。
だが冬の傘には、何も残らない。
ただ、静かに消えていく。
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湊の影が志乃の目の前まで来た。
その顔は、もう輪郭を保てないほど薄い。
志乃は震える声で囁く。
「行かないで……」
影は答えない。
ただ、志乃の肩に雪が一片落ちた。
その雪は、触れた瞬間に溶けず、
まるで“最後の記憶”のように、しばらくそこに留まった。
志乃は目を閉じる。
雪の重さは、湊の手の重さに似ていた。
しかし、やがてその雪は光となって消えた。
湊の影も、同じように消えていった。
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志乃は静かに傘を閉じた。
閉じる瞬間、内側の雪景色は音もなく消えた。
外の世界には、まだ初雪が舞っている。
志乃は傘を抱きしめるように持ち、
夜空を見上げた。
「冬は、記憶を眠らせる季節なんだね。」
その言葉は白い息となって空へ溶けていった。
傘の内側には、もう何も宿っていない。
しかし志乃の胸の奥には、
雪の重さと、湊の影が残した静かな気配が、
確かに息づいていた。
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『冬の傘』終わり