エピローグ
十一
分析室に戻ったのは深夜だった。
霧島玲子は青い涙を慎重に採取し、分析機器にかけた。
結果が出るまでの時間、誰も話さなかった。野村はコーヒーカップを持ったまま、窓の外の夜を見ていた。佐藤は椅子に深く座って目を閉じていた。岩城は腕を組んだままで壁に寄りかかっていた。
分析機が音を立てた。
霧島がデータを見た。
「……ただの水です」
彼女はそう言った。
「銅イオンも、未知の分子も含まれていない。ただの水。H₂O。それだけ」
万城目が静かに言った。
「いや」
一語だけ。しかしその一語の重さが、部屋を満たした。
「涙だけは、どの生命も同じなのかもしれない」
誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
コーヒーが冷えていく音がした。
十二
同じ頃。
名古屋市内のどこか。
薄暗い喫茶店があった。
店の名は「アザゼル」。表通りからは少し入ったビルの地下一階。看板は小さく、知る人間だけが知る場所だった。
カウンター席に一人の男が座っていた。
黒いスーツ。四十代か五十代か判然としない。髪は黒く、顔の造形は整っているが、表情がない。存在感は確かにあるのに、いるのかいないのかわからないような、奇妙な男だった。
彼は新聞を読んでいた。紙の新聞だった。
しばらくして、彼は新聞を閉じた。
「境界が……また一つ薄くなった」
独り言だった。しかしその声は、誰かに向けて言っているような響きがあった。
カウンターの上のコーヒーカップ。
黒いコーヒーが、ほんの一瞬だけ青く光った。
男は何も言わなかった。コーヒーを一口だけ飲み、また窓の外を見た。
窓の外に、名古屋の夜が続いていた。
男の名を、阿座瀬(あざせ)という。
彼が何者であるかは、まだ、誰も知らない。
* * *
宇宙は広く、生命は孤独だ。
どれほど遠くから来ても、どれほど形が違っても、
誰かのそばにいたいと思う心は、
同じなのかもしれない。
しかし境界が薄くなるということは、
招いていないものまで来るということだ。
アオイは迷い込んだ。
次に来るものも、迷い込むとは限らない。
薄暗い喫茶店の男は、今夜も新聞を読む。
境界の変化を、静かに記録しながら。
* * *
「青い涙」終わり