しばらくしたらアメンバー限定にします。

 

2016年の春に流産して、その後、秋に治療を再開。

凍結させた受精卵で2回、IVFトライしましたが結果は出ず。

 

ここまでしても結果が出ないのかと、すっかり心が折れてしまい

ちょうど繁忙期にもさしかかる季節でしたので

半年、治療を休んでいました。

 

治療を休んでいるうちは楽でした。

時間に追われて出勤前に病院に行く必要もない。

痛い注射を何本も打たなくてもいい。

ホルモン剤の貼り薬で腹部がかぶれることもない。

漢方薬を毎日飲む必要もない。

週末はお酒が飲めるし、

自分の時 間に余裕ができて

友達とは自由に会うことができる。

 

「治療していた頃に比べたら、自由だな…自分」

 

そんな自由になった自分。

4月は長い付き合いの友人と再会する月になりました。

 

最初は高校の同級生。

卒業と同時に九州に引っ越し、短大に進学。その後、就職して

現在も社会人として頑張っている友人。

その友人と、何年か振りに再会。

非常に感慨深かったです。

お互い、手紙、時折メールで近況を報告していたものの…

「会えば話しは尽きない訳で…」

手紙に書ききれなかったことなど、あれこれ話をしながら…

普段、離れていた友人と

名古屋城に一緒に出掛けて、大須の街を歩いたり…

夢のような1日でした。

なので、その日、帰宅して一晩眠ったら

「あれは夢だったんじゃないか?」と思ったりして。

でも、友人から別れ際におみやげをいただきまして

それがテーブルの上に置いてあるのを見て

「あぁ、夢じゃなかったんだな」と

ちょっとホッとした自分がいました。

 

10代の頃からの互いの悩みを知る友人と、

あれこれ話をして気持ちが落ち着く自分がいました。

離れた場所で私と同様、現在も

いち社会人として働いて頑張っている友人の存在は

私にとって、何よりの励みでした。

それに一時期は週末も外出できないくらい落ち込んでいた自分。

そんな自分がこうして友人と約束をして再会して

一緒に出掛けたりすることができてい る。

自分、少しずつ回復しているなと、

自信が持てた出来事でもありました。

 

それから5月には、以前に勤めていた職場で一緒に働いていた

私より一回り年上のお姉さん(すー姉さん)と再会。

すー姉さんには私の近況を以前から定期的に伝えてあったので

再会早々「色々と大変だったね…」と

親身になって声をかけてくれたことが印象的でした。

すー姉さんは、独身ですが、ご両親の介護まっただ中。

そういう意味で、私も避けては通れない介護というものを

先だって実践されているすー姉さんからは

色々と学ぶことも多く、何より、フルタイム勤務をしながら

ご両親の介護をされているというところには

尊敬という言葉しか思い浮かびません。

 

一回りも離れているのに、 なんとなく気が合い

年に1度は近況報告も兼ねて

ランチやお茶していた、すー姉さん。

私が治療に専念していたことから

ランチもお茶も随分とごぶさたしてしまったので

再会の日はとにかく、

すー姉さんが私との再会をとても喜んでくれて…

それだけで、私は随分と救われました。

自分のこと、親のこと。この年齢だから話ができることばかり

お互いのことをあれこれ話をしました。

姉のいない私にとって、

すー姉さんは、本当に私の姉のような存在です。

 

もうひとりは、私が現在、勤めている職場に派遣社員として

以前に勤めていらっしゃった、あき姉さん。

この方は私より数歳年上なのですが…

もともと、幼少期のご病気のこともあって

片耳が聞こえにくいハンデがあるのだけど、

その後も手術が必要な疾患になったこともあって

うちの職場の契約を終了した後に手術。

その後も1年に1度は会ってランチして

互いの報告をしていた仲です。

 

私が流産で苦しんでいた時、

あき姉は、左耳がこれ以上悪くならないよう

定期健診を行ったところ

頚椎に腫瘍が見つかり切除することに。

ところが、頚椎は神経が集中しているところのため

手術の際にどうしても神経に触れてしまったようで

結果、数ヶ月右半身のマヒが残ってしまったそうです。

リハビリの甲斐もあって、

現在はマヒになっていたこともわからないほど。

あき姉は、今まで色々なアクシデントを経験したのに

いつも前向きな方で…

先に書いたようなことを私にひとしきり話した後に、

「自分の人生なんて神様が操っているんだから

 自分じゃどうにもならないなって思っている」って。

そうやって言って笑うんです。

 

その姿を見て、私が泣いてしまいました。

 

素直にすごいなぁと思って。

「私なんてまだまだ落ち込んでいられない」

と、思わずつぶやいたら、あき姉が

「寒中見舞いで流産の話、書いてくれた時に、

どうしてもっと早く知らせてくれないのかなって思った」

と言い出したので…

それについては本当、

「親しい間柄ならそうだよね」と思って

申し訳ないと詫びました。

 

ただ私自身、流産の一件は、

頭の中を整理するのに時間がかかりました。

 

流産してから数ヶ月ぐらいの時には

相方や妹と話をしている時にも涙が止まらず…

 

ブログでは随分と頭の中に整理してから

書いているところもあったし、

どうしても主観的になってしまっていた自分を

客観視するためには時間が必要だった訳で…

自分自身、そうすることで精神状態が

良好ではないことも手に取るように分かった。

 

強がりだとか体裁気にしているって言われたら

それまでだけど…

自分の悲しみはある程度、咀嚼して落とし込んで

客観視しないと…話せないし…

ましてや、話して大泣きなんて姿は勘弁したい。

なぜなら自分が逆の立場だったら言葉かけるのに困る。

 

まぁ、確かに…気心知れた親友からは

「あんたは一番弱っている時に人に頼らない!」

って言われる訳で…

長女気質で我慢強いところもあるんだろうけど…

そのせいか、自分で解決しようと試してみるところが

どうしてもあるかな。

 

ま、自分が多感な時期に、母が情緒不安定で

さらに父は心臓の手術で数ヶ月、自宅に不在な状態もあったりして…

困った時に相談できる相手ではなかったという

家庭環境もあいまってだと思うけど。

でもありがたいことに当時は家とは別に

居場所(短大受験のため塾に通っていた)があったので

家の中がうまくまわっていないフラストレーションを

受験勉強をすることで

あと、一緒に勉強している生徒たちとともに

その時間を共有することで、だいぶ昇華できていた。

 

さらに10〜20代の頃に比べたら

ずいぶん、弱音吐けるようになりました。

 

友人と久しぶりに会って、心がほぐれた気がしました。

 

5月になって次第に仕事も落ち着き始め、

6月から不妊治療を再開。

凍結した受精卵はもうないので、

また一から卵子をたくさん育てて

卵子を採取するという過酷なスタート。

 

6月11日からブセレキュアという

点鼻薬タイプのホルモン剤を8時間おきに投与。

そして毎日注射で別のホルモン剤の投与。

前回もやったけど毎日の注射が一番辛い。

1時間早起きして注射だけ打ち、

素知らぬ顔で会社に出勤して仕事。

さすがに親しい同僚には詳しい話をしているけど…

それ以外の人には何も話してません。面倒だから。

前回もでしたが、日に日に卵子が増えて育つので

卵巣が大きくなってウエスト周りも日に日に大きくなる。

最終的に6月23日に採卵のオペ当日、

看護士さんも目安としてウエスト計測してびっくり。

超音波で見たら、見事に卵巣は大きくなっていた。

卵巣の中は卵子がびっしり並んでる。

オペ自体は全身麻酔で眠っているうちに終了。

翌日、診察を受けたけど、

やはり卵巣が腫れて腹部に水がたまって

身体のむくみもひどいので、

それを抑えるため漢方などを服用することに。

ちなみに卵巣が腫れた状態(当時の私は10センチ近く腫れた)で

下手に動くと、卵管がねじれ、

卵管閉塞になることもある。

(まぁ、腹部の鈍痛があるからどのみち動けないから

 週末は家でおとなしくしているほかないんだけど)

そもそも、こういう状況が隣り合わせっていうのが

自分がやっている治療っていうのは日常じゃないっていうのを

まざまざと思い知らされる。

 

今回の採卵で受精に適した成熟し採取できた卵子は計12個。

その中から受精した卵子は目測で3個でしたが

結果として子宮に戻せる受精卵(胚盤胞)は1個のみしか

残りませんでした。

 

前回、採卵した時の自分、38歳。

移植可能な受精卵は4個でした。

 

そして今の自分、40歳。

もう41歳に手が届こうとしている今。

卵子が2年近く前と同様の数、採れたとしても

結果、移植に適したレベルの卵子は1個のみ。

卵子の老化…これが現実なんだなと。

また冷静に自分を俯瞰するように見てしまいました。

 

「ゼロじゃなかっただけよかったとする」

 

そう思うしかありませんでした。

そうは言っても、その1つの受精卵が

必ず着床して妊娠につながる訳でもない。

 

正直言えば、精神的にも金銭的にも

相当追い込まれてしまう不妊治療については

今も迷っています。

子を授かるといういわば神の領域だと

私は思っているので、そんな領域に

私は医療に頼って子どもを作っているような

後ろめたさもあります。

 

だけど、それでも子どもを授かることができたら嬉しいし、

今までやってきたことも報われると思う。

とはいえ仮に…たった1つの受精卵(胚盤胞)で妊娠しても、

また流産したら…という考えもよぎるし

そうなった場合、今度こそ立ち直れないなと思ったり。

それに40歳という年齢もあって

身体的にハンディキャップを持つ子が生まれる確率も

20代に比べたら相当数上がります。

もし、妊娠した際にお腹の子が

ハンディキャップを持つ子だったとしたら…

自分は産む決断ができるのかと。色々と頭をよぎります。

胚盤胞を戻すのは繁忙期が落ち着く、たぶん10月頃。

それで結果が出なければ…

再び採卵し、それで、治療は諦めようと思っています。

 

なぜなら不妊治療の助成金の対象があと2回だから。

今年、2回治療を行えばそれで助成は終了。

 

金銭面から物理的に線引きを引けば

自分もある程度、納得できる引き際になると思います。

 

「子どものいない生活の方が可能性としては高いだろうな」

 

そんなことも最近は頭によぎります。

自分を戒めるためにも心の中でよく唱えていますが…

やはり、不妊治療はギャンブルに近い。

泥沼になる前に自分で進退を決めないと…

この先の人生、真っ暗になる。

自分はそう思っています。

引き際、大切。

 

ただ、もう半分真っ暗というか…

腹黒い自分に自分が苛立っている部分も

かなりあります。

 

第三者の妊娠が喜べない。

治療をしているから会う友人が偏る。

仕事も趣味も全力投球したいのに…

日常生活に組み込んでいかなければならない

治療のスケジュールが故にそれが出来ない現実。

 

「人間関係も仕事も趣味もなにもかもが中途半端な気がして…」

 

中途半端な自分を自分が許せなくて…

どうしてもそういう負の感情を抱えてしまう。

何より、子どもが授からない自分を

どうしても女として肯定できない自分がいる。

そしてそういう感情を抱えて

仕事したり、日常生活を送るのが本当に辛い。

 

「そろそろ自分を解放してあげてもいいんじゃないだろうか」

 

そう思いつつ…

 

「もし、結果が出なかった時…

 私は治療を肯定できるだろうか?」

 

治療に対する意味は…

たぶん、もっと先でないと…

下手したら死ぬまで出ないんじゃないかなと

最近、おぼろげに思います。

 

今年いっぱいは、弱い自分と対峙しながら

見えないゴールに向かって走る日々が続きそうです。