今日のお仕事(また新ルート?)
今日のお仕事は折り込み。
この2年くらいは木曜よりも金曜の方が仕事量が多いから、今日は2回戦になるかもしれない、と覚悟して出勤。
パッと見は多い……けれど。
ノート当番に確認してみると、1回戦でした。
私は機械前側担当。
彼の夕刊シフトが私んちコースだから、間に合うように帰りたい。
さあ、ガンガン回すよ!!
事務さんたちがお昼休憩に入って、彼が昼店番をしているところで、お仕事終了となりました。
(昼店番だと休憩時間が削られるから……大変そう)
お風呂に入って(昨日彼と入った残り湯)、お昼ご飯を食べ終わったところで14時17分。
そろそろ窓際待機しよう。
編み物をしつつ、外の音に意識を向ける。
来た来た♪
と、ここまではいつも通り。
変化があったのは台所の窓に移動してから。
この間の私に向かって来るコースを走るのも「有りか」ということで。
もっとも、長年のクセでいつものルートへ抜けるかもしれないけど、ということでした。
窓枠に手をつき、彼が通るのを待つ。
ここでふと思った。
『彼からは”よく見えない”のだから、ここに移動しないで、ベランダの側面に居たほうが良いのかも?』
今度、彼に言っておこう。
(ってか、ここを読んでくれてるから、書いておけば大丈夫かも)
そんなことを考えながら、彼が通るのを待つ。
いつものように、奥の建物の陰を右から左へ……
ま、曲がってこっちにくる?!
今までとも、この間とも違う彼のルート取りに、思いっきり動揺。(笑)
思わず……
「え~?!!」
声が出ちゃった。(笑)
しかも、うちの棟の前で曲がるのではなく、さっき手をヒラリとしたベランダ方面へ抜けて行く。
家の中を走って(笑)ベランダへ。
鍵開けて、窓開けて、網戸開けて……ってやってるうちに、彼のバイクは外道路へ……。
何となく呆然と見送りながら……
『やっぱり、今度から台所へ移動しないで、ずっとベランダに居ることにしよう』
と、心に決めました。
永遠の愛
昨日、彼にディアラバ・シュウのキャラソン「Farewell Song」を聞いてもらいました。
この話題、しばらくしていないから、「何のこと?」って人も多いかな。
「ディアラバって何?」って人も多そう。(苦笑)
2013年10月の記事で、歌詞カードに無い言葉が聞こえることを書いてます。
実際に、何人にも聞いてもらって確認したし、そもそも最初は私も歌詞カード通りにしか聞こえていなかった。
中間を過ぎたセリフ部分。
「愛してた」
息子も友達も、聞かせてみた生徒さんも、「愛してた」と聞こえる、と言う。
けれど、私には「愛してたのに」と聞こえる。
もやっと「のに」と聞こえる時と、はっきり「のに」と聞こえる時がある。
そういう風に聞こえ方が違う、という時点でやはり「のに」というのは、本来入っていないモノなのだと思う。
この「もやっと」と「はっきり」は最初は「もやっと」率が高かったけれど、いつのころからか「はっきり」率が高くなった。
最初の頃は私にも「愛してた」とはっきり聞こえたことがあったから、間違いなく「愛してた」のはず。
今だと、もやっとすることはほとんどなく、ほぼ100%はっきり「のに」と聞こえる。
これ、ずっと不思議だった。
どうして「愛してた”のに”」なのか、と。
「Farewell Song」全体の歌詞の意味は考えずに。
普通の日本語として考えてみる。
「愛してた」も「愛してたのに」も、言葉を発した人の思いということでは一致しているけれど、込められている想いは違ってくる。
「愛してた」だと、単純に「自分の想い」だけれど。
「愛してたのに」だと、
『自分は愛してるのに、相手が心変わりしてしまった』(責めるイメージ)
または
『愛していたけれど、伝えられないうちに終わってしまった』(後悔)
という風な背景が入ってくる。
自分だけではなく、『相手』の存在が見えてくる。
2013年10月といえば、岩崎さんにのめり込み始めている頃。
この頃知り合った、見えたり感じたりするハイレベルスピ系の人たちが口々に指摘する。
「繋がってるはずなんだけど」
確かに、普通に考えると接点などできないところなのに、「とーこさん」って名前呼びしてもらえたりバースディメッセージをもらえたりするものだから、「本当に繋がってるんだ?」と思ってた。
それなのに、「愛してたのに」だから……。
これが例えば、「愛してる」や、「愛されてたのに」だったら、私の感情が作用している空耳と考えられる。
それなのに、どうして「愛してたのに」なんだろう。
これがずっと疑問でした。
ふっと思いついたのは、昨日の朝。
ちょうど「Farewell Song」が流れて、いつものようにセリフ部分に耳を傾ける。
「愛してたのに」
今日も安定の「のに」だな、と思ったところで、ふと閃いた。
これは、「こっちじゃないよ」というサインだったんじゃないか、と。
そして、「のに」と聞こえるようになったころの記事を読み返していて、こんなものを見つけた。
---(2013年10月8日の記事から引用)
親からの愛をもらい、親として子供に愛を注ぎ、
『好きだ』と『愛している』と言ってくれる人にも出会ったけれど・・・
たくさんの好きだと思える人に出会ったけれど・・・・
離婚を経験したからなのか、『永遠の愛』は存在しないと思い込んでいた。
でも、それは違うのかもしれない、と思い始めている。
親から与えられている愛は途切れることはない。
そして、私が子供に抱いている愛も。
たとえ、どんなことがあっても、
物理的に距離があろうとも、
親からの愛も、子供へ向ける愛も『永遠』だと分かったから。
そう、明白なことだったのに、
何も隠されていることもなく、
こんなに堂々と目の前に示されていたのに、
これが胸の中にストンと落ちたのって本当につい最近のこと。
どんなことがあっても、
どんな状況であっても、
『永遠の愛』を分かち合える人と出会いたい。
子としてではなく、
親としてではなく、
一人の女として。
心から愛したいし、尊敬していきたい。
俺のものだと言葉で縛って、包みこんで欲しい。
---(引用ここまで)
彼が出向になったのは、この数ヵ月後だったんじゃないかな。
(お互いにサイレント期間だと意識することなく過ごした5年間)
10年前に「出会いたい」と望んでいた『永遠の愛』を分かち合える人と出会えた。
この人とはずっと一緒に居ることになる。
それが思わず言葉として出たのは、交際が始まって1ヵ月の頃。
それがとても自然で当たり前なことのように感じている。
ゲートウェイオラクル
Q.笑顔で過ごすためのヒント
いつもとは違うことをしてみる。
ただし、マイナス(負)なものではなく、
自分が(他の人を含めても良し)
「楽しい」とか「嬉しい」とか
気分が上がること限定。

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