今日こそは軽い話を書こう―――



と、思っていたのだけど・・・



まさかのまじめな話連続技で行っちゃいましょう。




今でこそ、こんな私ですが、小学生のころはいじめられっ子でした。


それも、私には不可抗力のことで、です。




私の父は、小学校の先生をしていました。


教員住宅という、いわゆる社宅ですね。

そこに小学校5年生の1学期まで住んでました。


1棟12軒で合計2棟24軒の教職員家庭が生活してました。


学校の先生といっても、普通の公務員で普通の生活をしてますから、

普通に地元の公立の学校へ通うわけですね。


今は、個人情報保護法によって、クラス全員に配布する連絡網などはなく、

住所も電話番号も親の職業も公にはなっていないけれど、

あの当時は、クラス連絡網にそれこそすべての情報が書かれていた。

保護者欄を見れば片親なのも分かるし、どこに勤めているのかも分かる。


そう、私の欄にもしっかりと「小学校教員」と書かれているわけ。


私と父は別々の学校だったけれど、

そんなに大きな市ではないから父のことを知っている先生は多い。


私の通う学校にも父の友達がいたりするわけだ。


廊下などで会った時に

「おっ!とーこちゃん、今日の夜、遊びに行くからお母さんによろしく言っといて」

なんて、声がかかったりする。


1年生の時は、それでも特に何か言われるでもなく過ごしていたのだが、

2年生のある日。

学習委員というものになっていた子が転校してしまった。

また、立候補や選挙で決めればいいものを、

担任の先生が私を指名してしまったのだ。


切っ掛けはそれ。

きっと、不満に感じた子も、そうじゃない子も家に帰って母親に告げたのだろう。


「とーこは先生の娘だから、えこひいきされている」


たまたま、その当時のクラスには同じ教員住宅の子もいなくて、

近所の親ぐるみで仲の良い子もいなくて。


学校へ行くと、クラスの中では仲間外れ状態。

休み時間になっても、私と話してくれる子はいない。


小さいころから本が好きだった私は、

仕方ないから図書室から本を借りて、休み時間は読書の時間に充てていた。


私の隣にわざわざ来て、大きな声で

「本読んでる振りなんだよ。私らの話を盗み聞きしてるんだよ。

 だってさ、目が動いてるじゃん」


――本を読んでたら、字を目で追うんだから動くにきまってるじゃん。

   こいつら、バカすぎ


あまりにもくだらない虐め方に呆れ果て・・・



その反応も、虐めていた側にしてみれば腹だたしいものだったのでは

とは思うが。



外されていたのはクラスの中だけということと。

一人っ子のおかげで一人でいることに慣れてるということ。

家に帰れば近所に友達がたくさんいるということ、

本来の自分は負けず嫌い。

学校を休めば自分の負けになる気がして、毎日、学校へ行き続けた。



とにかく、いじめの原因になったのが

「先生の娘だからえこひいきされている」という間違った認識。



親の職業のせいで虐められているなんて、親には口が裂けても言えない。


学校の先生だけど、その前に、父の友達である「おじさん」に

「外であっても話しかけないで」なんて言えない。



無視・仲間外れという虐めは3年生になってクラスが変わっても、

5年生になってまたクラス替えがあっても、断続的に続いた。

聞こえるように言う「陰口」は常に耳に入っていた。

それでも、クラス替えのたびに他の先生の子供や幼馴染みが

同じクラスになったりしていたので、2年生の時のように完全な孤立よりは

かなりマシな状態。


・・・だったと思う。



・・・きっと。




・・・たぶん。






今から考えれば、自分の無意識の防衛本能なのだと思うのだけど、

忘れられないほどの衝撃を受けたこと以外、

ほとんど全てのことを忘れているんです。


鮮明に覚えているのは、

先にも書いた虐められる切っ掛けとなった委員を指名された時の

周りのざわつき。

本を読んでいた私の隣でわざわざ言った一言。

先生の娘はえこひいきされてずるい、という陰口。


クラス写真を見ても、誰一人として名前が出てきません。

顔を見ても全くい思い出せない。

もちろん、懐かしさなんて全く感じない。






小学校5年の2学期からの引っ越し先の学校。

ここで、今迄からは考えられないほど、たくさんの友達ができ、

6年生の時に父が同じ学校へ赴任してきたけれど、

「白川先生」と呼ぶ私と、

「なんだい、白川さん」と答える父を見て、


「変な親子ー」とからかう人はいても「えこひいき」という人はいなかった。



転校先の小学校でも中学校でも、父の友達の先生に「とーこちゃん」

と呼ばれることは常だったが、

お酌させられて、酔っ払いの相手をさせられて大変なんだと

裏話を聞かせると、

かえって、「大変そうだね」と同情されたくらい。




私が、実は虐められていたのだと、母に告げたのは

10年ほど前。

ちょうど、離婚した頃。


何で言ってくれなかったのと言われたけどね。


言えなかったのだから、しょうがない。



父の職業のせいだと言ってはいけないと思った。


母に余計な心配をかけてはいけないと思った。


外には見せないが、虐められながらも、くだらないやり方・理由で

虐めている人たちを見下している自分がいた。




そして、きっとその頃から身につけたのであろう


嫌なことは忘れる


という、対処法。





これは、今でも。





折り込みの中の困ったチャンに嫌なこと言われて、

友達に愚痴らせて~と連絡し、翌日、飲みに行ったら・・・


――あれ、私って何にムカついてたんだっけ・・・




娘が小学生のころ、一緒に役員をやった仲良しの人と

しばらく疎遠になっていたのが、偶然スーパーで再会。


「わー、久しぶり。今度お茶しようよ」


と、お茶して、思い出した。


――そうだ。この人、私の不幸話ばかり聞きたがって、

   幸せな話を全く聞こうとしない人だった・・・

   マイナス思考の話にしかならないから、付き合うの控えてたんだっけ・・・







いくらなんでも・・・





忘れ過ぎ・・・・・・






もう少し覚えておこうよ・・・自分










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注:離婚のときに苗字を戻さなかったので、今は白川さんじゃありません(ニヤリ)