心理氏と。101 | アルクシカバネ。

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旧Yahoo!ブログの『イケルシカバネ』 2018.9.10-
学生時代の愚痴ブログ(非公開)を掘り起こしたもの

百十四回目の受診で、心理氏とは101回目のお話。前回、涙、というより嗚咽が初めて出たが(厳密には涙は鼻に流れて出なかった……)、今回はその話には全くならなかった。前回の後、心理氏に何を話そうと思ったか、GWで全て抜けた。

そして今年も小説三昧になったGWだった、と心理氏に話し、心理氏は今年も、どんな内容を書いたのか、それが今の泥水の調子と多々シンクロしていることを「本当にいつも小説には泥水さんの心がよく出るんですね」と言ってもらえた。

 

心理氏と話していて気付いた。泥水は元々、自分を投影したキャラクターは主役にしない。脇役や悪役には自分の性格と似た者がちょこちょこいるが、主役側は大体自分と違うタイプを置いてきた。心理氏は、何故ですか? と尋ね、泥水は「そうしないと話がハッピーエンドにならない」と答えた。自分の性格が主役をすると、よほど物語を捻じ曲げないと試練に負けたり、戦わずに終わったりしてしまう感じなのだ。現に、唯一少し自分に近い主役の話は、最後は暗い。しかしその暗い主役の最期の話を、完全に最後までは書かず、主役が滅びていく手前で止めた、と去年話した。今年はまた、主役達は封印され、決着はつかないという話を書いた、と伝えると、泥水さんは主役達の最期を書かれないんですね、と、泥水の書く話の特徴を的確に捉えて返してきた。本当だ、と自分でも気づいた。

心理氏は、自分が読者なら、暗い終わりでも主役の最期を見届けたいと感じる、と言った。泥水は、自分はほのめかすだけの終わりの方が好きで、だから多分、はっきり最期を書かずに、手前で止めた書き方をする、と答えた。それは何故であるのか、心理氏はずっと不思議そうにしていた。泥水も、そこはどうしてか、向き合う≒書く必要を感じず、またそもそも、「書ける気がしない」のも強い。

去年も今年も、泥水はGW前は厭世観が強かった気がする。そうでなければ多分書けない話を二年連続で書いた。また無駄なことをしたGWだったと言ったら、むしろ思い切り生きておられたのでは? と心理氏は言ってくれた。嬉しい。