■なぜ修行をするのか?密教的、自我(エゴ)の終焉プロセス。 | 種市勝覺(たねいちしょうがく)オフィシャルブログ Powered by Ameba

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今日は、少だけくわしく



密教の修行」によって
起こる(はず)のプロセスについて

書いてみますね^^



下記、普段の生活のヒントとしても、
活用できる部分もあるのでは?


と思います^^

 

なぜ修行をするのか?
密教的、自我(エゴ)の終焉プロセス


について。



「エゴ(自我・煩悩)」はよく


・消すべきモノ
・おさえつけるモノ
・忌み嫌うモノ
・否定すべきモノ





一般的には扱われがちですが、


密教の考え方からすると
必ずしもそうではありません。



「そのままじゃ
つかえないけど

変換して
いかにうまくつかうか?」


という

道具(エネルギー)」や、


自分の本質へとたどりつく
貴重な『ヒントや手がかり足がかり』、


というように

関わり方によっては
価値あるモノ!」


として捉えます。


⇒ ただし、 取り扱い注意(笑)



密教の目的でもある


究極の個性の開花
 (個人の可能性の頂点に立つこと)」、


『偽りではなく
自分自身の本質を生きる


そのためには


「エゴ(自我・煩悩)」に支配される側ではなく、

それらを【道具として使う側


の立ち位置に立つ必要があります。


そのために最も大切なことは、


まずは自分自身にある

「エゴ・煩悩」を否定し
抑え付けるのではなく


正確に「捉える
(そのまま受け取る、受け入れる、見つめる))」


ことからはじまります。



エゴ・煩悩のない人は
人として不自然ですし、


肉体を持つ以上
エゴ・煩悩をなくすコトは

不可能となります
(もともとインストールされている
プログラムなので)。


社会ではそれが
ないフリをして


いいこちゃんや
正しい人を


演じることを強いられます。


(そうすると、
自我(エゴ・煩悩)は、

コジれて増幅し、

パワーを蓄えます。)



で、エゴを表現している人をみると
みんなで叩きます。


「エゴ(自我・煩悩)」には、

内なるココロ模様として


・よくばり
・怒り
・無知
・慢心
・疑い
・なんでも悪くみてしまう


などがあります。


↑執着の「六大煩悩」。


これらはだいたい、

子どもの頃や
過去の経験において

禁止した(もしくは禁止された)何かであり、


自分には

ナイことになっているので
(↑そうであってほしいので)、

見たくないし
味わいたくない。


もし、その氣持ち(反応)に
出会うような

出来事に遭遇すると


拒否反応が起こります。


↓↓↓


「え!自分にこんなエゴ、煩悩、
ココロがあるなんて

信じられない!信じたくないよ!!」



「認めたくない!! 

ワルイ自分はイヤ。
誰かがワルイ。。。」



「いやーーー!こわい((((;゚Д゚))))))」

となります。




↑切り離したい!
分離させたい衝動です。



(自分の内側に有る(自分事)にもかかわらず、

どうにかして「ひと事(他人事)」にしたくなる。


↑まずは、これを客観視できたら
かなりスゴい。)



外なる社会においては、
いくらでも


・政治がわるい
・経済がわるい
・会社がわるい

・上司がわるい
・親がわるい
・環境がわるい
・タイミングがわるい


と他人や何かのせいにして
ごまかし、

それを重ねていくことができます。


(↑やがて負債になって
押し寄せてくるのですが(~_~;))



しかし、

たった一人でおこなうコト」や、
「内面の出来事」

ではナカナカそうはいきませんね。



なので【修行】は、

みんなでヤロー( ´ ▽ ` )ノ
ではなく、


基本的には

"ひとりで行うモノ"、

となります。



集団で行う種類の
修行であっても

それは個人のモノ。 
 
個人の体験として
みつめていきます。


修行は

誰のせいにもできない

という状況を


⇒ 『意図的につくる


というところが、
大切なポイントです。


↑つくるも何も元々そうなのですが。。。


で、


「山行、水行、滝行、護摩行、断食、瞑想」など
かんたんではナイことに挑み、


『不便だ、あれがない、これがない
スムーズにいかない、

思いどおりにならない、
あつい、さむい、いたい、かゆい、こわい』


など、


あらゆる

苦難

という不都合や、



理不尽(に見える、思える)ことを
溢れるほど体験します(自らにさせます)。



最初は、


自分の


・「はず。べき。こんなはずじゃない。」
・「私、かっこわるい!」
・「だらしない。よわっ。。。」

・「こんなカンタンなこともできないのか。」
・「同じこと、また間違えて、、、
  私、ばかみたい」


に対して
戦ったり、凹んだりしますが、、^^;



やがて
浮かんでくる「エゴや己の弱さ」の


無限性】に氣づき


消しても消しても
おわらん(消えない)。。。という、


"事実・本質"に出会います。




やがて「肯定的な諦め(委ねる)」が起こり

苦難の根っこを作っていたのが
自分であることに氣づきます。


(戦っても、
しかたがないことに氣がつきます。)


で、


◆「自分の都合よくいくはず!べき」


が、幻想



◆『不都合・理不尽に思えていた
(見えていた)こと』が、


本来、起こるべくして、

起こるタイミングにて
起こった事象に本質がある



冷静に観られるようになります。



これが修行によって起こる、


◆エゴ・煩悩である「はず、べき、執着」



◆自分の本質である『意識』の


分離です。



これは、
修行をしなくても


苦難や障害をうけ入れ


真っ正面から自分自身と向き合う
ことによっても起こります。



我慢ではなく、
我慢を介在させない

平和な状態です。


・他人や何かのせいにしない
・自分を責めるような「逃避」もしない

で、

(↑自分を責めるのと、
自分自身と向き合うはちがいます。

自分を習慣的に責めるは、
自分の愚かさと向き合いたくない時

(変わりたくない、怠惰の際の)短期的な逃避。)



やがて

あるがままの
自身を受け入れる

の、領域へ。。。

(↑ 愚かさや、至らぬ部分を含めて。)



この時、

エゴ(自我・煩悩)は
無くなったのではなく


排除や、包み隠すパターンとして
反応しなくなった

になります。



つまりエゴ(自我・煩悩)が、
あっても大丈夫』になった。


(エゴが無くなることは、
決してありません

なぜならそれは自分自身の
個性の一部だからです。)



これが密教モデルの

「エゴ終焉」の起こり方になります。



ちょっと長くなりましたが、

今日は


なぜ修行をするのか?
密教的、自我(エゴ)の終焉プロセス



を記事にしてみました。


少しでもご参考となりますと
うれしく思います☆


風水コンサルタント
風水カウンセラー
密教行者

種市勝覺



※【追記】オリジナルの文章に
文字装飾してみました✨


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