マイノリティたちの生きた証がなくなってしまうかもしれない―という現状、そういった危機感をたくさんの参加者が共有したと思います。
わたしたちもボランティアとして参加した東京レインボープライドのフェスタ&パレードについてはたくさんの情報に触れることができます。でもあの週は、「レインボーウイーク」ということで他にもたくさんのイベントが各地で開催されていて、そのなかには、多くの人に共有されてしかるべき情報がちりばめられていたはずで、今回紹介するのはまちがいなくそんな情報のひとつだと思います。セクシュアルマイノリティの「記録/記憶」をどのように保存、継承するかというテーマを扱ったトークライブですが、セクシュアルマイノリティのいない社会はありませんから、その意味でこれは、すべての社会にとっての問題でもあるということでいいでしょう。
http://tokyorainbowpride.com/rw2017events/17hostedbytrp/3173
タイトルにある「アーカイブ」とは、重要な記録を保存、活用し、未来に伝達すること、または、その記録を保存・管理する場所それ自体を指します。図書館はもちろん記録のデジタル化を通じたインターネットの利用が当たり前になった現代では大切な記録は誰かが保存して管理してくれていると思いがちですが、でも、もしその記録が「大切なもの」と認識されなければ、それは失われてしまったことにすら気付けないままに失われてしまっているかもしれません。そしてその多くは、マイノリティに関する記録なのではないでしょうか。マジョリティにとって大切ではないし、さらにいえば、いないはずの人たちが何かを残すことなんてありえないからです。そしてここには、こんな問題もからんできます。世をはばかるように生きなけらばならなかったマイノリティたちは、彼ら自身がその生きた証を消し去ろうとするし、その記録の存在に気づいた家族たちがそれをなかったことにしてしまう―。
このトークイベントでは、異なる分野の専門家やコレクターである5人のスピーカー、それぞれの分野のスターみたいな人たちが、自身の貴重なコレクションや、海外のアーカイブ事情を紹介しながら、セクシャルマイノリティ当事者の経験の記録や作品が時が立つにつれて失われていってしまっている日本の状況に警鐘を鳴らしました―といっても笑いあり気のきいた皮肉ありのトークは鮮やかだったし、スピーカー背後の大きなスクリーンにエンドレスで展開されたスライドショーはエロと芸術の境界を撹乱しつづけました。
さて、セクシュアルマイノリティたちのさまざまなアーカイブですが、イベントを通して強調されたことのひとつは、「現物」として残すことの重要性だったと思います。もちろん、どんな形であれ、残るに越したことはないし、例えばデジタル化は、コストの面でも現実的ですが、やはり「現物」が訴えてくるメッセージには心が動かされます。
スピーカーの一人であるマーガレットさんがコレクションをしている、会員にのみ発行されていた黎明期のゲイ男性向け雑誌には、不自然に切り取られたページがあります。持ち主自身の「会員番号」を記した部分が、そこだけ切り取られているのです。その小さな欠落からは、自身のセクシュアリティが明らかになってしまうことに対して感じていたであろう恐怖が伝わります。『弟の夫』の著者である田亀源五郎さんが編纂した作品や、スピーカーの三橋順子さんが管理する女装男性の写真の多くは、持ち主の死後に持て余され、次から次へと持ち主が変わったそうです。世界中に散在している原画を想像を超える努力で集めたというものもありました。
アーカイブを「保存」するということは、たんに「処分しない」ということではありません。その何かが多くの人に開かれている状況(できるだけ多くの人の目に触れることができる状況)を維持することまで込みで「保存」です。加えて、個人の経験に関するものについては、その個人の名誉やプライバシーを傷つけない形での保存ということも絶対に外せない要件ということになります。こういったことをふまえると、展示の場所、作品の状態を維持するための設備(湿度や照明の調節)など物理的な環境のみならず、マイノリティと社会についての知見を備えた学芸員の養成なども視野に入れることが不可欠であって、つまり、気が遠くなるような費用がかかります。
現状、日本には、セクシャルマイノリティの記録や芸術作品を保存するためアーカイブ環境が整っておらず、結局、コレクターやアーティスト個人の労力や経済力に大きく依存している状況が続いています。
わたしたちは、このイベントを通じて、アーカイブが誰にとってどのような意味を持つのかということをあらためて考えました。アーカイブは、学術的な研究のために存在するものであるという先入観は多くの人に共有されていると思いますが、マイノリティの視点からということで言うと、それだけではぜんぜんありません。マイノリティの経験や作品がアーカイブされるということは、マイノリティ当事者にとってはある種の希望を意味するかもしれないのです。
例えば、自身と同じ経験をしていた誰かの「日記」を手にとって読むことができることは、こっそりしていなければ生きていけないマイノリティにとっては、本当に大きい。身の回りにロールモデルを見つけることが難しいその誰かにとって、得がたいロールモデルになるかもしれないし、そうでなくとも、心の拠りどころになるかもしれないからです。ということであれば、保存されるアーカイブは多ければ多いほどいいということになるでしょう。また、そのアーカイブが「文化」として「公的」に保存されていることも重要だと考えます。それは、ときにいないことにすらなりかねないマイノリティの存在が「公的」に認められることを意味するし、その人生や仕事が社会に共有されるべきものとして認められることを意味するからです。
マイノリティの人生にアプローチしにくいのは、マジョリティも同じです。でも、マイノリティの生きた証がしっかりとアーカイブされていれば、それはマジョリティが、マイノリティの経験する疎外や困難に寄り添うきっかけとなるかもしれないし、自分たちとは違う視点に触れることで、それまでは見えなかったさまざまな視野を獲得することにもつながるかもしれません。この意味で、多様性は可能性ということにもなるでしょう。
この記事の最後にもう一度、失われてしまうこと」をしっかりと恐れておきたいと思います。「同じイベントに参加していた、わたしたちの友人のセクシャルマイノリティ当事者のひとりからこんなコメントをもらいました。
「私が中高生時代に拠り所としていたのは、名前も住んでいる場所も知らない同世代のセクシャルマイノリティが更新していたブログであった。そのブログも、プロバイダ自体がなくなり現在はアクセスすることができなくなってしまった。スピーカーの小澤かおるさんが訴えるように、失われやすいものから先に、継続的にアーカイブを行う環境の整備を行わなければ、失われたことにも気付かれずに多くの声が失われていってしまうのかもしれない。」
ではまた。
