杉山文野さんの勉強会で考えた | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

 前回に続いて杉山文野さんの勉強会レポート、後編です。トランスジェンダー当事者としてのライフストーリー、当事者ならではの経験、といったところにフォーカスしつつ、印象的な話、発想をコンパクトに紹介したいと思います。順不同な感じになってしまいますが、お話全体を振り返ると、やっぱり学校時代はたいへんそうです。ということは、学校が知らなければいけないこと、やらなければいけないことがたくさんあるということで、そのあたりを意識しながら、杉山さんの話に感想をかぶせていきたいと思います。「*」が杉山さんの話の端的な紹介です。
 
*スカート苦しい、制服困る、毎日「女装」してる感覚。
*でも、例えば「パンツスタイル」が認められていたとしても履かなかったと思う。みんなにまぎれてしまったほうが安心。短いスカートにルーズソックスという当時の定番を踏襲。
*男の子たちと遊び回っていた子ども時代は楽しかった。
 
 杉山さんが紹介する子どものころの写真、楽しそうに遊びまわる数々の写真のなか、スカートを履いた一枚だけが、絶望的なたたずまい。ここでお見せできないのが残念なくらい杉山さんの子ども時代を象徴する一枚のように見えました。ルーズソックスとミニスカートの似合う杉山さんの写真が痛々しい。
 
*学校でのプール、宿泊行事、トイレ、男女の別がハッキリしたスポーツなんかはきつい。
 
 杉山さんはフェンシングの日本女子代表というすごい経歴の持ち主でもありますが、もともと運動が好きだった杉山さんがメジャーとは言えないフェンシングを選んだ理由のひとつは、そのユニフォームが男女同じだからとのことでした。
 
*トランス後はトランス後で、例えば、書類の性別欄なんかはきつい。戸籍上は今も「女性」。履歴書、パスポート、選挙。今の日本は「男/女」しかない。
*戸籍の性別を変えるための制度的ハードルはすごく高い。性転換手術がマストとなっている。自身も手術していない。
 
 性別変更に「手術は必須」 というのは厳し過ぎると思います。なぜそんなリスクを負わなければならないのか、なぜ男や女がそれらしくあることにそれほどこだわらなければならないのか、と思わずにいられません。

http://hl.auone.jp/article/detail?genreid=4&subgenreid=12&articleid=KTT201702080334&rf=passtop_%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9
 
 杉山さんはこんな問いかけをしていました。これは印象的。どうですか、男や女のみなさん。
 
*「なんで自分を男だと思うの?」「どうして自分を女だと思うの?」
 
 引続き杉山さんの発言をコンパクトに。
 
*LGBTのうち、LGBは「自分×相手」、でもTは自分×自分。
*トランスはカミングアウトしても、いろいろがんばって心と体が一致しても、もう一度カミングアウトが待っている。「昔は男だったんだ」「昔は女だったんだ」。仲良くなればなるほど避けられない。
*小さなウソを重ねながらでないと日常をやり過ごせないのは苦しい。この意味で人間関係が作りにくい。
*性転換手術ではないにしても、トランスは移行期がたいへん。トイレ、着替え、生活全般。
 
 いずれも、言われてみれば―ということではありますが、ハッとさせられました。でも、次の話はもっと来ると思います。一般にセクシュアルマイノリティの自殺率は高いということですが、こんな話を聞くと、それももっともだということになるのではないでしょうか。端的であるだけになおさら刺さります。
 
*女としての未来を思い描くことはできない、男になれるとは思えない、自分に「将来」はあるんだろうか―。
 
 そして、ときにこんなアンラッキーが重なることだってあります。
 
*唯一の理解者に思えた彼女にフラれたときの「もう誰も―」という感覚は絶望的。
 
*中高のどこかの段階でドロップアウトしてしまうセクシュアルマイノリティも多い。「二丁目」イメージが強いけど、それはこんなふうにして選択肢が失われてしまうという現実の反映なのでは。
 
 再び学校に関わる話。
 
*少しづつカミングアウトできたり、本を出してたくさんの人に応援してもらったりのなかで、「もっと早く言ってくれればよかったのに」という声。でも、これはムリ!やっぱり「そうさせない社会」であるということはスルーできない。これは、マジョリティの問題でしょ。
 
 「マイノリティを追い込まない学校」というイメージはホントに大切だと思います。そしてそれは、マイノリティの属性を持つ生徒たちの居場所を作るということだけではないのだという杉山さんの指摘はホントにナイスでした。これ。
 
*マイノリティについて学ぶことは、生徒たちを、マイノリティを追い込んでしまう「加害者」にしてしまわないためにも大切!
 
 「普通の学校」のやり方をおさらいしましょう。これは誇張ではないと思ってください。
 みんな異性愛者、みんな日本人、みんな健常者、みんな書類上の性別どおりでまったく問題なし―これが「普通の学校」の大前提であって、そしてそこでは、そうであることが暗黙のうちに熱望されている。だから、そうではない誰かが声をあげることは少しも求められていない(現在ではセクシュアルマイノリティに限っても、少なくとも5%、調査によっては8%存在するとも言われているのですが)。そんな中で、例えばアンケートが行われる。いるはずがないし、いてほしくないという空気のなか、しかも、しばしば、もう帰りたいのにマジ?というタイミングで、繊細さを欠いた声が飛び交う中で行われたりする。どんな結果が?驚くべき結果を1つ紹介すれば十分だと思います。
 
 3月10日の豊島区議会、わたしたちの活動に協力してくれる一人でもあるオープンリーゲイの石川大我議員が区の公立小中学校のLGBT支援について質問しました。そのやり取り冒頭、セクシュアルマイノリティの割合についての議論のなかで、区側は区内約一万人の児童生徒に調査を行った結果、豊島区の公立小中学校にはセクシュアルマイノリティが一人もいなかったと述べたのです。担当者もさすがにばつが悪そうではありましたが(議会の様子はネットで見ることができます)。20年前の話ではありません。

http://www.kensakusystem.jp/toshima-vod/committee_yosan/live_down.html
 
 存在しない者に対して何かをすることはできない、対策が進まない、当事者はますます自身の存在を肯定しにくくなる、だったらもうまぎれてしまおう、アンケートの結果はまたしても―以下、繰り返し。
 
「理解」は本当に進んでいるのでしょうか。学校は、たんにコンプライアンス的に「理解」を示すだけではなく、その発想を根本的に見直さなければならないと思います。世界も学校もすでに、つねに多様なのです。それを受け入れ、そこにポジティブな何かを見いだすこと、ここ、がんばりましょうよ。多様性は可能性―これでしょう。