こんな映画で考えました④ 『アイ・アム・サム』の弱者は誰だ?③ | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

「勉強会」のつづきです。シンプルな話ばかりではありませんが、そこは頭をひねりましょう。こんな話をしてきました―ウィークネス・フォビア(弱者嫌悪)な誰かは、あらゆるマイノリティ、社会的弱者とされる全てと、そこに手を差しのべようとする全てに対して嫌悪を向けているように見えます。そしてそんな誰かは、なによりも自分自身弱者と見なされたくないし、弱者の味方と見なされるのも我慢ならないし、弱者の味方をする人たちのことも大嫌いなようです。

ダイバーシティの勉強会では、こんな感性の存在を前提に『アイ・アム・サム』を考え直してみよう、と試みました。今日はそのときの論点を当日のレジュメとメモを頼りに紹介したいと思います。

まずわりと簡単に共有されたのはこの映画が勧善懲悪物語として成り立っているというとらえ方です。『アイ・アム・サム』では、検事、ソーシャルワーカーといった人たちが、サムからルーシーを引き離す「悪役」として登場する一方、サムを雇うスターバックスの店長、サムの障害者仲間は、サムを理解する「善」として登場します。そして、単純にはこの枠組みに吸収されない登場人物―弁護士リタがやがて「善」化することで流れが決まってゆくのです。

さて、ここでウィークネス・フォビアです。わたしたちは、この作品では、ウィークネス・フォビアを内面に持っている人たちが「悪」の側として、そして「当局」側、つまりマジョリティ側として描かれていることに注目しました。彼らは、知的障害者である父親サムがルーシーの将来にネガティブな影響与えると考えています。そしてそれは劇中、彼らによってしばしば「嫌悪」をあらわに語られます。「かんべんしてよ、ムリに決まってんのに何言ってんの?」という雰囲気、得体の知れない者を遠ざけようとする雰囲気。わたしたちはそれを、「弱」側からのアクションに対する「嫌悪」の典型のひとつなのではないかととらえました―めんどうくさいやつらだなあ、なんだか不気味だし、という感じです。

で、このとき同時に問題とされたのは、「弱に対する嫌悪」は簡単に見つけることができたけど、ウィークネス・フォビアのもう一つのポイント、「弱とみなされてはならないという強迫観念」はどうだろう、ということです。これも探してみればすぐに見つかりました。それは弁護士リタのウィークネス・フォビアです。リタに注目することでウィークネス・フォビアを単純化することから逃れることができそうです。リタにもサムたちに対する「めんどうくさい、不気味なやつら」という類のウィークネス・フォビアがありました。でもそれだけではなく、彼女にはそれにもまして、「弱とみなされてはならないという強迫観念」が強烈にあったのです。

リタは弁護士として「負け知らずの女」で、だから社会経済的な勝ち組、「強」側ととらえることもできます。でも女性が「勝ち組」になるには代償が求められるのです(なんだかおなじみのパターンのような気がします)。彼女はこんな思いを抱えています。「みなが完璧に見えるが私だけはそうでないように見える」「夫はもっと立派な人と浮気している」「どんなに頑張っても十分でないように感じる」―そして、彼女の一人息子は彼女に対して硬く心を閉ざしてしまっています。つまり、一見すると「強」側の人間である彼女は、実のところ「女性」として、実質的「母子家庭」の母として「弱」であって、そして、にもかかわらず同時に「弱に対する嫌悪」「弱とみなされてはならないという強迫観念」、すなわちウィークネス・フォビアを抱えているのです。

弱者とその支援者たちがウィークネス・フォビアな敵を打ち破る物語?でもそんな単純な話では多くの人をひきつけることはできなかったでしょう。わたしたちは「当の弱者にもウィークネス・フォビアは共有されているという」イタい側面が描き込まれていることでこの作品に引き込まれたのではないでしょうか。でもそれはリタだけのことではありません。そうではなく、サムについてすら、言えることだと思うのです。危機に陥ったときのサム―あのレストランでのサムを思い出してください―、「普通」になりたいサム、強がるサムは、自身の障害とそのウィークネスを呪ったのではないでしょうか。そんなサムの目に大好きだった仲間たちはどう映ったでしょう。つまり、こうなのではないでしょうか。ウィークネス・フォビアは誰のなかにもあって、心のどこかで暗く息を潜めていて、いつ暴れだすか分からない。

サムとリタはそれぞれある段階で自身の「弱」とウィークネス・フォビアを引き受けたのです。それがどんな場面だったかここではふれませんが、最後のサッカーのシーン、ルーシーがゴールを決める、サムが喜ぶ、ルーシーとサムが走り回る、他の子供たちも走り回る、リタがその息子と一緒に笑う、というあの場面があたたかくて楽しいのは、そこに自分の中の「弱」とウィークネス・フォビアを引き受けたことで心が少し軽くなった人たちと、その解放された感じに惹きつけられる人たちがあふれているからだと思います。

このウィークネス・フォビアの問題、最後はさまざまな意味でウィークネス当事者、マイノリティ当事者でもあり、学外からいつも協力してくれている仲間のひとりの話を挙げておきたいと思います。


ここで、個人的な体験を踏まえてみたい。私は幼少期から両親との関係がうまくいかず、そのことで自傷を試みたことさえあるということは、以前ダイバーシティの集まりの際に述べたとおりだ。しかし、このような勉強会に参加するようになるまでは決してそのことを表に出したことはなかった。両親も、授業参観や保護者会になると、何も問題がないかのようにふるまっている。家庭に問題があると、「犯罪者予備軍」と見なされ、メディアもこぞって事件の際に「重要な背景」として取り上げる。「黒子のバスケ事件」*の渡邊被告の意見陳述もこのウィークネス・フォビアに関連付けられるだろう。彼の陳述を直球で受け取るならば、彼は幼少期の精神的虐待を表に出さず、学校でのいじめも相談できず(周りの大人たちにウィークネス・フォビアを感じ取ったのかもしれない)、ウィークネスの中でのつながりを自分より強い人に断ち切られたと思い、「『弱』と判定された」と考えて犯行に及んだのだろう。私も、家庭の問題や小学校時代のいじめ、アスペルガーや精神疾患、性的指向などを表に出せば「『弱』と判定され」疎外されると思っていた。そしてそれを隠すために、両親にはあえて授業参観に来てもらったし(そしてもちろん仲良くふるまったし)、精神疾患の薬も隠れて飲んだり、ことさらに「女好き」をアピールしたりしていた。

つまり、重要なのは、強者が弱者に対して持つウィークネス・フォビアだけでなく、弱者が弱者の中にウィークネス・フォビアを内面化しているということだ。『アイ・アム・サム』では女性としてのリタの仕事-家庭だったし、私なら性的指向などになるし、それは人それぞれ違うだろう。いずれにしても『アイ・アム・サム』では弱者におけるウィークネス・フォビアの内面化がていねいに描かれていないのではと感じるのだ。
 
ウィークネス・フォビアはおそらく今後スクール・ダイバーシティの活動にとっても重要なポイントになるだろう。その時に、気をつけなければならないのは、ウィークネス・フォビアが単に「強→弱」という一方通行ではなく、弱者同士の間でこんがらがって存在しているということである。社会的弱者、つまりマイノリティにも過ごしやすい社会をつくるには、この複雑化したウィークネス・フォビアを少しずつひも解いていく必要があるだろう。


どうでしょう、ウィークネス・フォビアという概念。込み入った話もありましたが、でも分かりやすくすることばかりがいいことではないでしょう。ダイバーシティは、単純化してしまいたい気持ちをぐっとこらえて、このウィークネス・フォビアと向き合っていくつもりです。

*この事件、ずいぶん話題になったから覚えている人も少なくないでしょう。とりあえずこれを貼っておきます。渡邊博史『生ける屍の結末―「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』(創出版2014)


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