で、当日ですが、ルールはひとつ。「桐島」経由で発言する。このやり方に沿って、すべての登場人物について「しんどさ」「イタさ」「楽しさ」といったところを、具体的な場面、セリフにそくして読み込んでいくことができたと思います。自分たちと重ね合わせながら、学校に構成される暗黙の序列や疎外の網の目をあらためて感覚できました。参加していた教員たちはどこか異物チックで「見えていない」教員の描かれ方に苦笑。
たたき台として配布した内藤朝雄さんの議論にも踏み込んでみましたが、これについては入口に立ったくらいだったような気がします。読み込む時間が足りませんでした。あらためて取り上げてもいいかもしれません。
自分自身の経験的なスクールカーストについての話はたいへん興味深かったし、かなり踏み込んだ話を共有することができたと思います。スクールカーストの有無、程度、あり方は、それによって息苦しさや理不尽を感覚する誰かの側から推しはかってみる、痛みを感じている誰かの見え方にそって構成してみる、というやり方がベターなのではという理解は重要だと思います。痛みを伴う話をしてくれたみなさん、ありがとうございます。
あらためてディスカッションのまとめを作って広く共有したいと思います。参加者のみなさん、自分が話したこと中心にどんどん書いてください。よろしく―ということを言っていたらさっそく「まとめ」が来たので定例会で紹介したところ議論が盛り上がったので、その様子も紹介しておきます。
「まとめ」のポイントは「キャラを演じること」と「スクールカーストの形」。「まとめ」の本人も含めてこんな意見が出されました。
*自分自身は「キャラ」を演じているつもりはないんだけど、高校生一般がキャラ作ってるといわれるのはショック。
*演じている子やスクールカーストを感じている子の目線に立って話を進めるということは頭に入れたほうがよい。
*キャラを演じているとかスクールカーストとかは、けっこう大人が振り当てている物もあるのでは。
*意外とカーストを感じていない子も多いのでは。自分はカーストのどこにも所属していない感じ。小学校の時から捻くれ者だった事が幸いか。
*カーストの形はピラミッドだけではなく、上の子達を下の子が格好のゴシップのネタにしていることでもっと捻れた形。上よりも下の方が怖い事も。
*誰でも何かしらキャラ演じているだろう。教室の自分、うちにいる自分、女子としての、男子としての自分、友達といる自分―。
*むしろ本当の自分が分からない。
*「無数の自分」がいて、その場その場でふさわしい自分を出す、というかふさわしい自分が出てくるという感じだろう。
*でもそれはそんなにしんどくないかも。
*例えば一人で電車乗ってるときなんかどうしていいか分からなくなる、ぐるぐる考えてしまう。
*しんどくないということは、きっとふだんあまり「しんどい演じ方」をしなくてすむような学校生活なんだと思う。
*だから、「キャラを演じること」はあたりまえのことで、問題は演じることがしんどいかどうかなのでは。
*演じることを意識しないですんでる人はしんどい環境にいないですんでる?
*自分が望まないキャラを演じていなければならないことがある。そのような人間関係が、ときにスクールカーストなのでは。
*いじられキャラなんかはしんどいときあるはず。実際、しんどい。キャラ変えようとしてもそうすると「あれ、なんかちがうじゃん??」みたいにいじられることも。
流れをふまえて箇条書きにするとこんな感じかなと思います。いずれにしても、誰かがそこにいることに苦痛を感じていないということが、そこにいる他の誰かもが苦痛を感じていないということを意味しない想像力は大切だとあらためて感じます。補足、修正あったらよろしく。
これに関連する議論はディスカッションでもかなりあったので、引き続き発言者からの「まとめ」待ってます。
