こんな映画で考えました②―『ミルク』前篇「ダイバーシティ通信2特集映画ミルク」より | スクール・ダイバーシティ

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成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

前回の更新では、わたしたちスクール・ダイバーシティが「映画」を取り上げるときの流れを、わたしたちの考え方と合わせて紹介しました。例えばということで、映画『ミルク』の場合の上映会告知から、フリー・ディスカッションの観点提案までを見てきたわけですが、今日は、実際ディスカッションではどんな話題が挙がったのかということで、それを特集した「ダイバーシティ通信2」を詳しく紹介しておこうと思います。ちょっと長いので2回に分けます。お付き合いください。

「ダイバーシティ通信」は、まだブログでの活動が認められていない時期のわたしたちにとって、全生徒・教員に活動の主旨、内容を伝えることができる重要なメディアでした。で、その第2号が『ミルク』特集だったというわけです。

まずは「はじめに」。あらためて読むと、性的マイノリティ作品を高校で扱うこと自体のむずかしさをわたしたち自身も感じていたことが、よくわかります。


はじめに
「ダイバーシティ」の活動に興味があって上映会に行きたいと思っていても、“性的マイノリティ”についての映画だからという理由で、敬遠してしまったという人が多くいたのではないでしょうか。敬遠してしまう理由としては、例えば、“性的マイノリティについての映画を観に行く自分”への周りからの“視線”が気になるということがあったのではないでしょうか。でもこの作品はその“視線”自体の正体を考えるきっかけになるかもしれません。以下、「ダイバーシティ通信No2」では、上映会とフリーディスカッションを通じて「わかった(かもしれない)」ことや考えたことをまとめて紹介したいと思います。



「あらすじ」は、省略ということでいいでしょう。次の項目「カミングアウト」について見ていきたいと思います。


「カミングアウトすることについて」
ここでのカミングアウトとは、自分が性的マイノリティであることを周囲に告白することを指しています。主人公ミルクが他のゲイにカミングアウトを強要するシーンがあります。ミルクの説得にはパワーがありましたが、カミングアウトするということは、とても勇気と覚悟を要する行動です。ミルク自身も保険のセールスマンをしていた頃は職を失うことを恐れ自分がゲイであることを隠していました。カミングアウトすれば、好奇の目で見られることは確かであるし、職場で差別されてしまったり、仕事をやめさせられるかもしれません。また、もし、職場で差別的な言動などがよくなされているとしたら、言い出したくても言い出せないでしょう。だから、カミングアウトは個人の責任でやるべきことではないのでしょうか。また、カミングアウトする集団にもよると考えられます。集団が小さい方が1人1人の存在の重みが大きいので、努力すればみな理解することができるでしょう。一方あまりに集団が大きいと、理解を促すこともむずかしいだろうと思われるので、カミングアウトすることも躊躇してしまいがちだと考えられます。

いざカミングアウトしたら、今度は社会の差別的視線と戦わなくてはなりません。現在でさえ、ゲイと言えば「気持ち悪い」ものとして認識されることがほとんどであり、あくまで「マイノリティ」の域を脱していません。今ではゲイが「病気」だと思っている人は少ないでしょうけれど、ゲイが「普通ではない」と思っている人は多い。間違った人にカミングアウトすれば、根も葉もないうわさが広がり、自分の立場を危うくすることもあるかもしれません。出たら出たで、必ず社会が変わるわけでもありません。カミングアウトしないほうが平穏な生活を送れると思う人も多いと思います。だからこそ、自分自身が「普通」であるか否かにかかわらず、目の前にいる人が「普通」ではないかもしれない可能性を常に意識しておかなくてはならないのではないでしょうか。

カミングアウトをしない人あるいは出来ない人は、どうしても周りの「普通」の感覚に合わせようとして自分を抑えてしまいます。でも本人もその現状に満足しているわけではないのです。ミルクが彼氏に対して、「自分を変えたい」と言っていたのが非常に印象的でしたが、このように思っている人はたくさんいるはずです。しかし、カミングアウトをすることは非常に勇気のいることなので、ばれないように世間の「普通」に合わせるために家族を持っている人もいるかもしれません。そういう人が周りにいるかもしれないことを常に念頭に置くべきでしょう。もちろん、自身が「普通」であるか否かにかかわらず、です。



続いては社会の圧倒的多数派、「普通」の人たち、つまりヘテロセクシュアル(異性愛者)の意識について考えて、交わした討論のまとめ。


「ヘテロセクシャルの視線」
次に、へテロセクシャル(異性愛者)でかつ自分がノーマルだと思っている人たちが性的マイノリティの人に対してどんな態度をとっているかについて。ヘテロセクシャルと一言で言っても同性愛に対する視線は様々です。それを嫌っている人はもちろん反同性愛に賛成します。では、自分には関係ない、どうでもいいと思っている人はどうでしょうか。彼らもまた、反同性愛に賛成することになっていくのではないでしょうか。もし、同性愛に賛成したことが周りのヘテロセクシャルにばれたら、ということも考えられるし、「関係ない」と思えるということは、「自分は普通、圧倒的多数派」と思っているということであるので、「普通でない、圧倒的少数者」である同性愛の側につくことは難しいのではないでしょうか。こうして反同性愛はマジョリティの大半の支持を得ることになります*。

また、ヘテロセクシャルの中では、どうしても性的マイノリティについての話はタブーで、触れない方が楽であると考えてしまいがちです。性的マイノリティについて考えることは、ヘテロセクシャルにとっては未知なことについて考えること、つまり一言でいってしまえば大変で面倒なことであるのだと思います。というわけで、あえてタブーということにして考えずに済むようにしているのだと思います。でもだからこそ、性的マイノリティについて語ること、それが特別だと感じられないくらいに、語ることが大切なのです。


*同性愛反対、同性愛嫌悪には宗教的な問題も絡んでいる。キリスト教では同性愛は罪となっているからだ。しかし同時に「隣人を愛せ」という教えもある。したがってすべてのクリスチャンが同性愛に反対しているわけではない。むしろ日本社会よりもキリスト教ベースの社会のほうが同性愛に寛容なのが現状だろう。ただし、キリスト教徒原理主義者などと呼ばれる一部の人びとは同性愛を「神に背く大罪」とし、徹底的に非難する。悪意に基づいた反同性愛ではないだけに難しい問題。
時間があったらこれを観てみるといいかもしれない。http://huff.to/1mIi3Xy(「同性愛者たちのパレードに抗議する反同性愛の集団に、ドラッグクイーンが一人立ち向かう」)



長くなってしまうので、ここで一度、区切りたいと思いますが、この一連のイベントでは、セクシャルマイノリティ当事者とヘテロが、「ミルク」という同じ作品を観て、意見を交わし合うという時間を持つことが出来ました。これは参加した誰にとってもとても大きな経験だったと感じています。

つづきはまた次回更新で。



tusin