ニャ~オ | 交心空間

交心空間

◇ 希有な脚本家の創作模様 ◇

「先輩……真理子先輩?」
 誠が悲壮な声をあげた。
「いるよ、ここに」
 ずいぶん窮屈そうに返したのは、誠より二つ年上の真理子だ。
「ここって、どこですか?」
「誠のすぐうしろ……ィテテ……」
「うしろ向けないんですけど」
「あたしも同じ……ァー、動けない……」
「どうします?」
「どうするって、どうしようもないぞ、こりゃ。何でこんなとこ入ったんだろ」
「だァって、あいつが……」
「ニャ~オ」
 誠の前でちょこんと座っている猫が愛らしく応えた。
「ペルシャ猫。メス。二歳……だったよな」
 真理子がぼんやりとつぶやいた。その前で半ば前屈みになっている誠は、起
きあれそうもない状態に観念したのか、目玉だけを真理子のほうに動かした。
「はい。名前はマリリン。目印は赤い首輪に銀色の鈴です」
「見つけた方には、謝礼として」
「十万円さしあげます!」
 誠と真理子が威勢よく大声をあげた。すると、そのとおりと言わんばかりに
マリリンが「ニャ~~オ」と返して、悠々自適に毛繕いをしてみせた。
「ハ~ァ……で、何してんの? その十万円は」
「いますよ。ボクの前の、行き止まった所。座り込んで前足舐めてます……ァ、
こっち見てます。何んなんだよ、お前たちはって言わんばかりに睨みつけてま
す。ヤバイ! 手を伸ばしたら猫パンチでしてきた」


交心空間 徒然雑記-「ニャ~オ」挿絵

「実況中継してどうすんの」
「そうっすね」
「どれくらい入ったと思う?」
「十メーターか、もう少し行ってるかも」
「幅、どれくらいかな」
「ビルとビルの隙間のことですか?」
「そう。あたしたちが今挟まってる、ここの幅」
「三十センチ? もっと狭いかも」
「ハハ……ギネスもんだね」
「真理子先輩……前は行き止まりです。だから、うしろに下がって出るしかな
いんじゃないですか」
「下がれるもんなら下がりたいよ。だけど動くとコンクリーで擦っちゃって、
イテテ……」
「十万円追って入るときは、簡単に入れたんですけど」
「勢いって怖いもんだな……十万円か……」
「それだけあれば落研ライブの予算にばっちしなんですけどね」
「アー、巨乳がうらやましい。EやFとは言わないわ。せめてDカップ。そし
たら胸がつかえて入れなかったろうに」
「笑えませんよ、そのボケには」
「そうだな。せめてうしろを向けたら、道を通る人に助けを求められるのに。
アー、情けない」
「気がついてくれますかね?」
「この辺、人通り少なかったと思う」
「エェ~」
「それに、こんなビルとビルの間に、美人女子大生とボケもツッコミもヘタな
相棒が、二人も挟まってるなんて、誰が思う?」
「助けて!」
 誠が大声をあげた。
「誰かいないの!」
 真理子も必死に叫んだ。


 結局、ビルとビルの間に挟まれた二人を誰も気づくことなく、かなりの時間
が過ぎていった。疲れはピークに達し、もしかしたらこのままここで……そん
な絶望感に包まれていた。次第に支配される圧迫感の中で二人は、思いのまま
に動けることの喜びや、自由に走り回れることの楽しさが、ことのほか恋しか
った。
「ニャ~オ」
 マリリンが鳴いた。
「ボク、ここから出たいです。コンクリートの壁に顔や腕や身体中擦りまくっ
て傷だらけになってもいいから、もう出たいです。でも、ボクがここから出る
ってことは、振り向いてエイヤーで力の限りうしろに下がって……そしたら…
…」
 誠が半ベソで訴え始めた。真理子は堅く目を見開いて大きく息を吸い込んだ。
視線を四方八方に動かして、ザラザラとしたコンクリートの壁に挑戦的な意識
を向けた。
「誠の前にいるあたしも、エイヤーで下がるしかないってこと?……というこ
とは、あたしも傷だらけってわけだ」
「そういうことになりますけど……けどボクにはできません。真理子先輩をそ
んな目に合わすことはできません」
「じゃあ、このままここで挟まれて、ペシャンコの人生送るのか!」
「ハハハ……今、ペシャンコとペルシャネコ、かけたでしょう……アハハ、ア
ハハハハハ……ペルシャンコネコ、なーんてね。オモシロイです」
「何言ってんだ。一生ここにいろ」
「それは嫌です」
「だろう。なら誠、やってみよう! 思い切ってうしろに下がろッ……痛いけ
ど、やるしかないだろ」
「ダメです。それはできません。ここから出たいけど。自由になりたいけど、
真理子さんを傷つけてまで、そんな自分勝手なことはできません!」
 誠は号泣していた。
 真理子は感極まって目を閉じた。
「真理子さん……初めてそう呼んだ……ってことは……誠……」
「マリコーーー!」
 届かぬ思いに対する悔しさか、誠は思い切り手を伸ばし拳を握り閉めて叫ん
だ。
「マリリーーーン!」
 拳の先にはマリリンがいた。
 ふと真理子が顔をしかめた。
「はい?……どっちなの!」
 誠は必死に叫んだ。
「マリコリーーーン!」
「おーッい!!」
 真理子が怒った。
「ニャ~ーーオ!!」
 マリリンも怒った。
 その鳴き声は、それまでの穏やかなものから、どこか二人を嘲笑うかのよう
に変わった。さっと上体を起こしたかと思うと、猫科特有の背中をアーチ状に
した威嚇の体勢をみせた。そしておもむろに重心をうしろ足に移動させると、
首輪の鈴を激しく鳴らして駆け出した。
「アッ、猫が!」
 誠が叫んだ。
「十万円が逃げる。待て!」
 真理子が叫んだときには、マリリンは二人の足下をスルリと抜け去ったあと
だった。


 どうってことなかった。動きだした十万円の猫を捕まえようと、誠と真理子
は身体をねじり手を伸ばし、いつの間にか猫を追ってビルとビルの隙間を抜け
出していた。あれこれ思い悩んだことも、欲望の前には歯が立たないのか。そ
んな矛盾を抱えながらも二人は、鼻の穴を全開にして自由であることの証をい
っぱい吸い込みながら、十万円を追って走り続けた。


                               おわり