日光御成街道 その3 岩槻宿から幸手

 日光御成道、4番目の宿場町岩槻宿からのスタート、

埼京線大宮で東武線に乗換、岩槻駅8時50分着

 

 

 5:51 東武岩槻駅をスタート

 1-9:03 岩槻市役所跡の一里塚  日本橋から9里目 追分から8里目

1-9:05 市役所後のこけしの石人形

1-9:06市役所後の太田道灌石像

2-淨安寺参道、左側には渋江町と刻まれた石柱、寺歴では1505年に真言宗から浄土宗に転宗。参道も山門も一見の価値あり。

3-出口町の龍門寺、2mを越える長い生垣の奥が山門、曹洞宗、岩槻藩主大岡忠光の

菩提寺

4-9:31 南辻二股分岐点に地蔵と元禄八年(1695)建立の庚申塔道標、「是より左ぢおんじ道 是より右かすかべ道」

5-9:37 慈恩寺橋から元荒川の上流を撮る

5-9:38 慈恩寺橋を渡った袂に猿田彦大神道標、昭和3年(1928)建立の道標

「北幸手町二至ル 東大戸二至ル 南 岩槻町二至ル」

6-10:07街道右側に相野原一里塚、左側にはなく説明版もない、トタン張りの囲いで気付かず通り過ぎ、戻って撮影、縮小復元されている。 日本橋から10里目

 

6-10:10 相野原の杉並木、社参当時は両側に連なってた並木は10本に満たない。

7-10:27 岩槻市鹿室安国寺、

7-10:30 安国寺奥から見た西に広がる農地、社参時一行が富士山が望め小休止して

      富士山を眺めたとか。

 8-10:41 白岡市に入る

 8-10:42 水と緑のふれあいロード眼下の川は黒沼用水路、「享保13年井澤弥惣兵衛為永によって掘られた用水路」説明版から抜粋

9-10:51往還橋から隼人堀川上流を撮る、前方の橋か義理橋

10-11:13 姫宮川上流を撮る

10-11:14姫宮川畔の不動明王像 寛永四年(1851)造立

11-11:20 下野田の日本橋から一里塚11番目 ここの一里塚は左右が揃っている

11:35 宮代町に入る

 12-11:55備前堀川手前の石仏石塔、青面金剛庚申塔、血神、読みずらいが馬頭観音、血神は地神で田畑の守護神

11:56 国納橋から備前堀川上流を撮る

 12:00東武伊勢崎線踏切

 13-12:06備前前堀川、備前堀川とが前後に流れている

13-12:07 大落古利根川和戸橋

 13-12:07 和戸橋から大落古利根川上流を撮る

13-12:08和戸橋を渡って左側の塚に大落古利根川治水碑

14-12:10和戸橋を渡った二股分岐点な間に庚申塔道標、HP石碑石仏によると参姑神と刻まれているようで自分には難しすぎる。左面に「右すぎと道 左さっみち」と読め、宝暦七年(1757建立)

15-12:16下高野一里塚 江戸より28里、12番目の一里塚、東側のみが残っている。

16-12:33 松並木の名残

17-13:14 幸手市に入る

18-12:46県道65号線脇路地交叉角に馬頭観音道標、文化十四年(1817)建立、右面に「西 く記(久喜) 志ようぶ(菖蒲) かず(加須) 道」左面に「右日光 左いわつき道」

18-12:48 道路脇の青面金剛庚申塔と枇杷溜井の樋門

19-12:51 日光道中日光御成街道合流点、幸手追分。 

19-12:51幸手追分 前方左右、日光御成道、画像は日光街道から撮る。

   前方ベルクは廃業しTAIRAYA幸手店に代わっている。 

13:14幸手駅

  徳川将軍の参拝は 家康の死(元和2年1616)の翌年、元和3年3月、日光東照宮竣工

その年4月に2代将軍秀忠が社参、翌年の元和5年、元和8年(1622)と計3回社参

1623年と1625年3代大納言家光、1658年大御所秀忠と将軍家光の2人が社参。

1629年から1648年に家光は7回、計10回の社参、翌年の1649年4代将軍家綱社参

14年後の1663年家綱が計3回目の社参、65年後1728年8代将軍吉宗社参

48年後1776年10代将軍家治社参 67年後1843年12代将軍家慶が最後の日光社参。

日光社参は合計19回実施されそのうち、16回が4代将軍家綱までに集中、

特に3代将軍家光は10回と歴代将軍の中で最多である。

徳川家康を除き第15代徳川慶喜までの14名の将軍の東照宮社参は6名である。

日光東照宮竣工(1617)から大政奉還(1868)までの251年に19回の社参。

     参考資料

  鎌倉街道中道と日光御成街道

   芳賀善次郎著作 「旧鎌倉街道 探索の旅 中道編」

東上線中板橋から環七通りを越え、中山道小豆沢2丁目交差点に出て板橋街道をゆく。

京浜東北線赤羽ガードを潜り岩槻街道宝憧院入口の道標に「東 川口善行寺道・日光岩付道 南 江戸道、西 西国富士道・板橋道」とある。この西とは今まで通て来た旧鎌倉街道板橋街道である。

西早稲田の高田馬場跡から西巣鴨に、この道は部分的に消えた所がある、神田川面影橋付近は一帯は「山吹の里」といわれ太田道灌が狩りに来た所という。

目白通りを越え、雑司ヶ谷に出てサンシャインビルで道は途切れるが毎時通りを北に進み、明治通りと中山道の交差点を北に向かい、十条自衛隊駐屯地を横切り、

中十条1-27-3の鎌倉街道と合流するこの道を東と呼び、ここからきた300m程十条富士、2.4㎞ほど先で鎌倉中道、西と合流。

鳩ケ谷宿出てさいたま市に入り直ぐに二股分岐道に出る、下り坂(貝殻坂)も台地上の道も旧鎌倉街道、東方低地に下がる旧街道が日光御成街道にならなかったのは水害が多い道だったためではあるまいか。そうしたことは、宮代町や古川市中田新田でもある。 原文のまま「旧鎌倉街道 探索の旅 中道編」から抜粋

 

  HP gokaidou.sakuea.ne.Jp 道中日記「日光御成道」

 

  2016-12/3 AM8:37 本郷追分出立、川口武蔵野線高架橋PM14:30着 距離23.87㎞ 歩数34.208歩   自宅からの総歩数38561歩 29.7km

 2016-12/10 2日目 東川口駅から岩槻駅まで

 武蔵野線高架橋AM9:25出立、岩槻駅入口PM13:20 歩数22678歩 距離15.876㎞

 2016/-12/18 3日目 岩槻駅入口AM8:56 幸手追分PM13:02  歩数25000歩 距離17.5㎞

   私見

 本郷追分から鎌倉街道中道東合流まで6㎞、この間を旧岩槻街道、ここから幸手の日光街道合流まで、鎌倉街道中道。

鎌倉街道と名のつく道は沢山あるようで司馬遼太郎著作「箱根の坂」の主人公、早川早雲が古河公方との赤浜の戦いで敗残兵として鎌倉裏街道、川越から新河岸川沿いに敗走したのと記憶している。

鎌倉街道中道は宇都宮から古河、与野、板橋(枝道赤塚)、府中、戸塚、鎌倉の道筋。

書かれているものもある

さいたま市中央区与野本町通りから戸田市早瀬の荒川の渡し、赤塚の通過する役所の観光案内にも載って、早瀬の渡しでは戸田市教育委員会の掲示板に「源頼朝が下総の国府を出発して荒川を渡って武蔵国府に向かった当時の渡船地点はこの早瀬であったろうと思われます」一部抜粋。

地下鉄赤塚駅出入口脇、旧川越街道と交叉するところに、鎌倉古道道標が設置されてある。石柱の中央に鎌倉古道、左側に「至かまくら」右側に「至はやせ」と書かれている。斯の如く鎌倉道は古、脇、裏、枝道と沢山ある。

日光御成街道から鎌倉道と寄道してしまいました。