『戸田市史研究』 戸田市における水系の沿革 伊田良久著

   笹目用水路(文蔵川) 10編 P8   

 浦和市立文蔵小学校の南側で新曽用水から分水。 蕨市錦町から戸田市北端を流れる水路で現在の文蔵川がこれにあたる。かっては現在の浦和市立南浦和高校付近の分岐点で更に二つに別れていた。

 一本はそのまま西へ延びて、浦和市内谷、曲本、松本、戸田市美女木を感慨する水路であり、その名残が、朝霞・蕨線に沿った暗渠水路として今も存在している(美女木用水)。

 もう一つは、分岐から南西へ下り、戸田市下笹目・惣右衛門を灌漑する水路(笹目用水)で、昭和40年から平成元年までの、「西部土地区画整理事業」、昭和47年から平成4年までの「北部第一土地区画整理事業」により、

 今はその面影はない。

 笹目、美女木用水路は辻用水路と同様、昭和に入ってから掘削された笹目川に分断された格好になっている。

 なお、戦前の笹目川掘削当時は、辻用水路、美女木用水路は伏せ越し構造、笹目用水路は笹目川の上を樋で渡す構造を取り、従来通り西に流れていたことが、昭和22年の航空写真および戸田市区画整理担当の方のお話から確認できた。

 

浦和市史通史編  Ⅳ河川の修繕と治水

(高度経済成長と市の変貌)『笹目川』P319~P320の8行で終っている。

 『笹目川』 別所沼、白幡沼を水源とし荒川に合流、昭和42年6月1日、流路延長7㎞のうちの下流(荒川合流)から5.15㎞の区間が一級河川に指定された。昭和44年度に改修工事に着手、昭和45年には改修事業計画を策定した。昭和45年から昭和52年にかけて小規模河川改修工事(主に用地取得)、昭和46年から

昭和63年にかけて地盤沈下対策河川事業(排水機場ほか)、昭和53年中小河川事業を実施した。

 昭和47年4月4日、都市計画法により、都市施設として計画された

  (経済成長と浦和)より

  武蔵浦和図書館では上記以外の笹目川関連の記事を探したがに見つけられず。

 

   ボートコース関連参考資料 chapter-060 五差路を造った

 戸田市史 通史編 下(戸田市1987.3)

 戸田市史 資料編 近代・現代(戸田市1985.3)

 県道川越白子線道路台帳平面図(埼玉県)

 戸田土地区画整理解散並び清算完了届(戸田土地区画整理組合 1960.3.29)

 戸田土地区画整理計画図(戸田土地区画整理組合 1938.2.1)

 荒川堤上流改修工事概要(内務省東京土木出張所 1925.10)

 荒川堤上流改修工事概要(荒川上流工事事務所 1954.11.25)

 荒川上流改修60年史( 荒川上流工事事務所1979.12)

 

 

  笹目川紀行  2017-11-25 晴 笹目川源流から荒川合流、笹目水門まで

 笹目川の歴史について調べたが、ホームページで調べても解らなっかた。 

 湿地帯の排水路として掘削され中央排水路の名付けられている。

 私の知る限り昭和30年中頃から日本の経済の発展に伴い水質は悪化、1980年代に入り綾瀬川が、全国水質ワーストワンになり、笹目川はそれに次ぐ不名誉な汚名を掛けられた川である。 

 川の浄化に気が付いたのは平成中頃、笹目川の谷口上橋を渡る時、川面に大きな鯉を見つけ、しばらく、沢山いる鯉を眺めていて過去の記憶が甦る。

 戸田市の現在は中央通り、昭和20年代は笹目通りと呼び、笹目川に掛る根木橋から上流は田圃、浦和市の東野台の森が望めた。下流のを眺めると右岸河川敷法面にヤギが草を食べている姿が見られこの付近には牧場があった、また、旧荒川土手の名残があったと記憶している。

 1964年、笹目橋が開通、東京オリンピックが開催され、

 この時代から笹目川付近の現在の笹目北町に戸田工業団地が出来、白幡、沼影地区にも大小の工場が目立つようになり、笹目川の水質は一気に悪化、経済最優先が国是のような時代、咎める者も現れず、汚れ放題。

 現在の笹目川は上流は雨水や食品会社の排水を濾過し最上流から放流、

 内谷橋には荒川からの毎秒0.3トン導入水が行なわれ、荒川からの魚の遡上と小魚を狙う、水鳥達が沢山見られる様になった。 

 荒川河口から5.15㎞が笹目川の最上部になる。

 200m下流に中曽根橋歩行者専用橋 300m下流白幡橋 250m下流瓶尻橋、右岸には別所排水路流合流口があり、この付近ではカワセミが巣営しているようで、度々、綺麗な姿を見せている。230m下流に内谷橋、

 内谷橋袂右岸下流に水質保全の為荒川の水をポンプアップして放出している滝護岸があり、一日2度の  

 階段護岸から流れ落ちる水と水しぶきの風景はオツに見える。 260m下流に水辺公園前橋、平成8年架橋木製アーチ橋、左岸すぐ先には見沼用水西縁の流れが流入している。400m先に今は無き砂田切橋跡、 

 平成8年製架橋ポニートラスト木橋、平成22年部材の腐食が確認され通行止め平成24年4月に取壊された。 笹目上橋、笹目川橋、上に外環自動車道が通る。

 内谷橋から笹目上橋迄は川の両岸は綺麗に整備され、川裾にはテラスが設けられ、川面に泳ぐ魚たちが、

 手の届く距離でまじかに見られ、川の流れを調整する丸太の木の上には沢山の亀(外来種)が甲羅干しが

見られ、川辺には沢山のカニの這いずりも見られる。

 堤上は右岸では内谷橋、笹目上橋間の約800mの距離に桜並木が続き春には桜の下の川沿い歩行が出来、 

 右岸は歩行者専用の通路になっており、散歩には適した場所になっている。

 600m下流に外環高速道路下では、三本の橋が並んで掛っていて、上流から笹目上橋、笹目川橋、笹目下橋と続く、いずれの橋も橋名は掛っていない、この付近から川幅が広がっている。

 中央橋県道79号の上には埼京線高架橋が交叉しており、池の尻橋、歩行者専用で埼京線の駅が出来た時に架橋された様だ。池の尻橋と北部橋の左岸は大型の階段が在り、下流の川沿いは綺麗に整地されている。

 北部橋、イオンの南側を通る綺麗な橋で、この橋も 平成になって架橋されたようだ。

 橋中央の両側に男女のオブジェがあり、北側に南に向い立膝で前に肘を曲げ掌の平を両手を合わせた、

 (潤い)題名、南側には、北向きに両手両足を開き天に向って立つ(大空)と名付けた銅像が立ち、

 北戸田駅前にも同じ作者のオブジェがある。制作者田畑功の名称がはめ込まれている。        

 橋のデザインも芸術的で見応えがある。

 北部橋右岸では谷口橋まで彫刻家中岡慎太郎作のオブジェが並んでいる。

 谷口上橋傍らに「笹目川遊歩道と名付け、自然と彫刻のプロムナード」と記された案内板があり、

 北部橋から 谷口橋の先まで公園まで桜並木があり、桜の季節には彩を添える。 

 芦原橋は歩行者専用の架橋で 小堤橋、境橋の両橋のネームプレートが4枚とも外されていた。   

 北大通りは昭和40年代に出来た道路で、北大通り架かる山宮橋の右岸の橋下は以前は通行が出来なっかたが人が通れる様になっていた。

 中央橋から山宮橋の右岸は最近に整備され、川の遊歩道の名に恥じない様相を見せている。

 山宮下橋は歩行者専用で自分の知る限り以前は無かった橋だが、右岸の橋の側に市立保育園が出来ているので、安全面を考慮して架けられて橋と感じられる。

 根木橋は中央通りに架かる橋で、中央通りは昔からある戸田と笹目を結ぶ幹線道路になっていた。  

 堤向橋も沼口橋も東京オリンピックの時にかけられた橋で、富士見橋と富士見大橋もそれ以後に架けられた橋と記憶している。富士見橋と富士見大橋の間隔は50mも無く、富士見大橋には橋名が無い。

 富士見大橋を渡ると道は突当り似たり土手方向に曲がると笹目川とボートコースを繋ぐ橋が架けて有り、

 その橋の橋名が富士見大橋となっていて、橋の名前を共用しているようだ。

 富士見大橋から100m程で荒川に流れる笹目水門になり、笹目川の終了地点になる。

 

私文

 笹目川の開削工事が始まる前年に国道17号戸田橋、大宮間の工事が始まり昭和10年に開通、

 この時点で国道と笹目川の状況が歴史から忘れ去られている。

 笹目排水門で1月元日と12月11日の夕方16時15分前後の数分間、ダイヤモンド富士が見られる。

笹目川の初冬

]新幹線埼京線高架橋と左上北戸田駅ホーム

1月元日午後 4時15分 ダイヤモンド富士