「私は○○がしたいんですが、それは河川敷ですか? ワールドカップですか?」

こういう質問をされることがある。

知らない(笑)。

河川敷とワールドカップは、僕が勝手に作った抽象的なたとえ話であって、世の中を分類する基準ではない。

大切なのは、僕の物差しで自分を測ることではなく、自分がどこへ行きたいのかを決め、そのための自分の物差しを持つことだと思う。

まず、目的地を決める。

そして、その目的地に近づいているかを測るために、物差しを持つ。

順番はこっちだ。

これは「効率化」の話にもつながる。

「もっと効率化しなければならない」

「AIを使って生産性を上げなければならない」

「この仕事を自動化した方がいい」

でも、その前に聞きたい。

何のために?

効率とは、目的に対して初めて意味を持つ言葉だ。

目的地を決めずに速度だけ上げても仕方がない。

間違った方向へ時速200kmで走れば、効率よく目的地から遠ざかるだけである。

もっと厳しく言えば、

目的無き効率化は、サボりの言い訳になり得る。

僕が考える「不要な努力」とは、大変な努力のことではない。

同じ目的を達成できる、より安価な代替手段がある努力

のことだ。

だから効率化とは、単に努力を減らすことではない。

目的をよりよく達成するために、不要な労力を減らすこと。

浮いた時間や労力は、本来もっと価値のあるところへ振り向ければいい。

だから、目的地がなければ、そもそも何が「不要な努力」なのかさえ決められない。

受験勉強を考えると、これがよくわかる。

受験勉強は、実はかなり効率的だ。

出題されないことはやらない。

配点の低いところに時間をかけない。

過去問から傾向を読む。

最短距離で合格点を取りに行く。

「入試に合格する」という目的に対して考えれば、とても合理的である。

だから、社会に出てから受験勉強がそのまま役に立たないことを不思議がる必要はない。

当たり前なのだ。

社会に出てから役に立つことを目的に勉強していたわけではないのだから。

受験勉強が非効率だから役に立たないのではない。

むしろ逆だ。

受験という目的に効率よく最適化されたから、別の目的にはそのまま使えない。

目的地が「入試合格」なら、偏差値や点数はかなり便利な物差しになる。

でも目的地が「社会で価値を生み出すこと」に変わったら、同じ物差しを使い続けていいとは限らない。

目的地が変われば、物差しも変わる。

これは、「どうしよう、どうしよう」と延々と悩んでいる人にもつながると思う。

どうしよう。

困った。

どうしよう。

やっぱり困った。

本人は一生懸命考えているつもりでも、同じところをぐるぐる回っているだけなら、それは必ずしも「考えている」とは言えない。

悩むことと、考えることは違う。

考えるのであれば、少しずつ具体化していく必要がある。

自分はどこへ行きたいのか。

どんな道があるのか。

それぞれの道には、どんなコストがあるのか。

何を重視するのか。

そして、自分が目的地に近づいているかを何で測るのか。

つまり、

目的地と物差し。

この二つが必要なのだと思う。

学校では、「与えられた物差しで高い点を取る」訓練はたくさんする。

テストなら点数。

受験なら偏差値。

そして合格、不合格。

目的地も物差しも、最初から誰かが用意してくれている。

でも社会に出ると、そうはいかない。

何を目指すのか。

何をもって成功とするのか。

何を捨て、何を残すのか。

そもそも何を測るのか。

そこから自分で決めなければならない。

だから、

「英語はどこまで勉強すれば十分ですか?」

「AIはどこまで使えばいいですか?」

「もっと効率化した方がいいですか?」

「転職した方がいいですか?」

「私は河川敷ですか? ワールドカップですか?」

と聞かれても、他人には簡単に答えられない。

あなたがどこへ行きたいのかを知らないからだ。

河川敷でもいい。

ワールドカップでもいい。

その中間でもいい。

重要なのは、どこが正しいかではない。

自分はどこへ行きたいのか。

目的地を自分で決める。

そして、そこへ近づいているかを測るための物差しを自分で持つ。

目的地も決めずに、速く走ろうとしない。

物差しも持たずに、良し悪しを測ろうとしない。

そして、

他人が決めた目的地へ、他人から渡された物差しを握りしめて、効率よく走ることを「自分の人生」だと思わない。